#23   「享保の改革」  2013年3月13日放送

#23 「徳川吉宗 VS 徳川宗春」

#23 「徳川吉宗 VS 徳川宗春」
#23 「徳川吉宗 VS 徳川宗春」

徳川幕府の危機

徳川幕府誕生から110年。度重なる大火事や飢饉により幕府は財政破綻に。その影響は庶民にまで及んでいた。この惨状を救うべく二人が立ち上がる。一人は徳川御三家、紀州藩に生まれ、後に8代将軍になった徳川吉宗。そしてもう一人は御三家筆頭の尾張藩主となった徳川宗春。二人が掲げた政策は正反対であった。吉宗が打ち出したのは、国を挙げての節約生活。極端な倹約令を全国民にしき、経済を根幹から建て直そうとした。しかし宗春は、吉宗の緊縮政策を真っ向から否定。豪華絢爛、ド派手な衣装に身を包んだ宗春。吉宗に対抗し打ち出したその驚きの政策とは!? ある時、吉宗のもとに届いた一冊の本、「温知政要」。書いたのは宿命のライバル宗春。そこに記されていたのは反享保の改革ともいえる言葉の数々であった。宗春の思想を危険視した吉宗は、宗春を尾張藩主の座から引きずり降ろす為クーデターを起こす。将軍吉宗が放った策、果たしてその結果は? 中興の祖の名君、徳川吉宗。徳川幕府きってのトリックスター、徳川宗春生死存亡を賭けた戦いが今始まる。

因縁の二人

貞享元年(1684)、吉宗は紀州藩主徳川の四男として誕生。紀州徳川家は、いわゆる“徳川御三家”の一つ。御三家には将軍家の後継ぎが途絶えた時、御三家のいずれかから将軍をたてるという役割があった。御三家とはいえ吉宗は四男。出世の道は既に閉ざされていた。ところが、宝永2年(1705)、父、長男、三男が次々と急死。吉宗は思いも寄らない形で紀州藩主の座についた。さらに大きな運命が吉宗を待ち受けていた。正徳6年3月。7代将軍の徳川家継が病にかかり危篤状態に陥る。家継はまだ8歳。当然子はなく、徳川宗家の血が途絶えてしまう一大事。次期将軍候補は、御三家の尾張・徳川継友、水戸・徳川綱条、そして、紀州の吉宗。御三家筆頭、尾張の徳川継友が最有力候補とされていた。時の老中、間部詮房が将軍に指名したのは紀州の吉宗。正徳6年、6月26日。吉宗は江戸幕府8代将軍に就任した。一方、当然将軍家になると考えていた御三家筆頭尾張藩は、後継者争いに負け落胆。数年後、その尾張から吉宗にとって不倶戴天の敵、継友の弟、徳川宗春が現れる。宗春は、元禄9年、尾張藩三代藩主の子として誕生。父には多くの側室があり、子供の数は39名。宗春は20番目の男子。当然、跡取りの望める様な状況ではなく、宗春は江戸の町に毎夜くり出し、芝居見物や遊郭で遊ぶ気ままな日々を過ごしていた。宗春が35歳になった享保15年、大勢いた兄が次々と死に、存命の兄も他家を継ぐ事となっていた為、宗春が藩主の座を継ぐ事に。宗春は吉宗に藩主となった報告をする為江戸城に出向く。質素な服を着た将軍の目の前に、豪華な衣服を身にまとう宗春が現れた。片や4男、片や20男。出会うはずのない二人が、同じような道を辿り、将軍と御三家筆頭藩主として歴史の表舞台であいまみえる。

#23 「徳川吉宗 VS 徳川宗春」

温知政要

家臣への給米も払えぬ程、財政状況が追いつめられる中、吉宗が最も力を入れたのが、徹底した倹約だった。自らも率先し倹約に努めた。安い木綿の服を着て、色も地味。食事は1日2食、おかずは三品まで、それ以上は「腹の奢りである」と自らを戒めた。ある時、質素倹約を進める将軍吉宗は奇妙な噂を耳にする。「江戸にある尾張藩邸が近頃やけに賑やかで、深夜を過ぎても人の出入りがある」との事だった。この頃宗春は、日常生活に関する物の売り買いまでも制限する吉宗の政策を問題視していた。そして宗春は真っ向から吉宗に勝負を挑みはじめる。藩主となった宗春は、まず尾張藩邸の夜遊び帰りの門限を撤廃し、規制を大幅に緩める。同年、尾張に戻った宗春は、芝居の興行を奨励。さらに、遊郭の営業も認める。ある日、宗春は質素になっていた盆踊りを盛大に行うよう藩庁に指示を出す。町民は浮き足だち、町は俄然にぎやかになった。が、その最中、宗春の2歳になる娘が、亡くなるとの報が入る。当然、藩庁は祭りの中止を告げ、領民たちはあきらめてこの触れに従った。ところが、「上に立つ人間の都合で、民の楽しみを奪ってはならぬ」と宗春は言い、盆踊りの再開を命じたのだ。人々は心をうたれ、宗春を支持する者が増えた。自らの政治理念を記した本「温知政要」を、堂々と吉宗に献上したというのだ。それはまさに時の将軍吉宗に対する挑戦状であり、もし宗春が敗北することがあれば、尾張藩自体の存亡も危ぶまれる。この時、吉宗は、自分にとっての宿命のライバルが現れた事を悟った。

対決

二人の対決がついに始まる。宗春は端午の節句の日、江戸の尾張藩邸におびただしい数の鯉の幟を飾り町人に見物させた。贅沢を禁じる吉宗への挑発。怒った吉宗は宗春のもとへ使者を差し向ける。使者は倹約令を守らない宗春の態度を咎め詰問。意外にも宗春は素直に頭をさげた。抵抗を恐れていた使者はこの態度に胸を撫で下ろす。すると宗春は使者に「ここからは世間話ですが」と断り一気にまくしたてた。「上にたつ主が倹約、倹約とおっしゃっても、貯まるのは幕府の金庫の中身のみ。民を苦しませる倹約は本当の倹約でしょうか。私は金を使いますが、使う事によって世間に金が回り、民の助けになるから使っているのです。口だけの倹約とは決して異なるものです」使者を真っ向から説き伏せてしまった。確かに吉宗が目指していたのは、緊縮財政政策による幕府の再建で、民の暮らし向きは二次的なもの。宗春の人気は急速に広がり、やがて「近々、尾張公が公儀をあいてに、一戦挑むそうな」といった不穏な噂までもがでる始末。この噂は、尾張藩士たちに強い危機感を与えた。吉宗は尾張藩の内部分裂を見逃さなかった。ある日吉宗は密かに尾張藩の重臣を江戸城に呼び寄せる。吉宗は、重臣を通じ尾張藩の有力な家臣たちに次々と接触。秘密裏にある計画を進めていた。そして、宗春が参勤交代で江戸へ出向いていた時の事。重臣たちが、「宗春さまが藩主になってから決めた事はとりやめ、すべて以前に戻す。これからは藩主の言う事ではなく、我らのいうことに従うべし」と、尾張国内で勝手にお布令を出した。反宗春派によるクーデターであった。さらにとどめとなる命令が幕府から下される。「藩主宗春、行跡常々よろしからざる故もって隠居謹慎せよ!」尾張で起こったクーデターの責任を宗春にとらせるという形。宗春の失脚が決まった。側近たちは皆泣き崩れた。一人宗春だけは違った。宗春はみじんも敗者の装いを見せず一言呟いたという。「おわり(尾張) 初もの」。自らの藩主人生の「終わり」を、「御三家筆頭藩主に対する初めての仕打ち」と洒落てみせた。

ゆめのあと

8代将軍徳川吉宗は、その生涯を通し、不安定な幕府の財政を立て直そうと戦い続けた。吉宗が進めた改革は、一応の成功を治め、吉宗亡き後も幕府が財政破綻に陥るたび、政治家たちは享保の改革を手本とした。その吉宗が最も恐れた男・徳川宗春は謹慎を命じられると尾張に戻り、名古屋城内に幽閉された。基本的に外出は禁止、母親の葬儀にさえ参列することは許されなかったという。明和元年(1764)、歴史の表舞台に戻ることなくこの世を去る。今日、宗春の肖像画は一枚も残されていない。それどころか、宗春在命中の正式な記録は闇に葬り去られている。そんな中、宗春の治世を懐かしみ、密かに記された一冊の本がある。「遊女乃阿戸(ゆめのあと)」こんな一説が記されている。「老若男女、貴賤ともにかかる面白き世にうまれ逢う事、ただ前世の利益ならん」必ずしも、宗春の意図したようには事は進行しなかった。260年の江戸時代のどこを見ても民衆にここまで言わしめた藩主は、如何の地にも出てはいない。

高橋英樹の軍配は…

わたしは「俳優」という仕事をやっておりますから「俳優」を否定されることが一番困ります。「芝居小屋」を否定することは現代でいえば「テレビ局はいかん」と言うことになり、ひいては「出版社」も「映画」も「歌手」もとんでもない、という世界を吉宗さんは作ろうとしていた訳ですよね。そうなりますと「俳優」というわたしの立場から言わせていただきますと、支持するのは徳川宗春! 演じてみたいのも宗春ですね。あの派手さや馬鹿さ加減というのは演じる人間にはとても魅力がありますね。権力に敵対する人物、それによって自分が滅びてゆく。勝ってはだめなんですよ。負ける美学、ですね。