#86 2016年1月22日(金)放送 不屈の戦国義将 立花宗茂

立花宗茂

今回の列伝は立花宗茂。戦国時代、「西国無双」と謳われた武将。秀吉は宗茂をして「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と評した。20歳にして家臣から13万石の大名になるも、関ヶ原では秀吉の恩義を貫き西軍へ組し、お家断絶。しかし徳川家に仕官し、再び大名へと返り咲く。その人生は波瀾万丈。戦国の奇跡の物語を紐解く。

ゲスト

ゲスト 作家
童門冬二

不屈の戦国義将 立花宗茂

裏切りが横行し、血で血を洗った戦国の世ーー。この時代に、「決して裏切らない」と言われた、一人の戦国武将がいた。立花宗茂(むねしげ)。あの秀吉をして「西国無双」と言わしめ、関ヶ原の戦いでは西軍についたにもかかわらず、その後徳川から寵愛を受け、大名復帰を果たした人物である。今回は「戦国の奇跡」と呼ばれた、立花宗茂の人生に迫る!

一の鍵 「父の教え」

立花宗茂は永禄10年(1567年)、現在の大分県・豊後の国に生まれた。父・高橋紹運(じょううん)は、北九州6ヵ国を治める大友家の重臣。だが当時、南に島津家が台頭し、大友の領地を虎視眈々と狙っていた。来たるべき島津との戦に備えるため、宗茂は紹運から英才教育を施される。紹運の教育もあり、宗茂は14才にして初陣を果たし、見事な武功を挙げるまでに成長。そしてこの活躍に目をつけたのが、大友を支えるもう一人の重臣・立花道雪(どうせつ)だった。

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道雪には男子の後継ぎがおらず、一人娘である誾千代(ぎんちよ)に立花家を継がせていた。大友家を支える高橋家と立花家の結束のためにも、宗茂を是非とも婿養子にしたい。道雪の懇願を受けた紹運は、その願いを聞き入れ、宗茂は立花家の家督を継ぐこととなる。
だがその数年後、道雪が病死。大友家を支えるのは、宗茂と紹運の二人だけになってしまった。そして天正14年(1586年)、ついに島津軍が大友領・筑前に侵攻。島津軍5万に対し、宗茂が守る立花山城の兵は1500、そして父・紹運が守る岩屋城はわずか500。圧倒的不利の戦局だった。勝利を確信した島津軍から降伏勧告があるも紹運はこれを拒絶。戦慄する宗茂は、紹運のこんな言葉を思い出していたーー「君 君たらずとも 臣 臣たれ」

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主君が盛んなときに支える者は多かれど、衰えたときに支えてこそ真の家臣。それが紹運の信念だった。そして紹運は自らの命を賭して岩屋城で奮戦し、自刃。島津軍は大友領最後の砦となった、宗茂が守る立花山城に進軍する。
宗茂は父の遺志を継ぎ、5万の島津軍相手に籠城戦を繰り広げる。そして大友宗麟の要請を受けた豊臣秀吉の援軍が九州に到着し、島津軍は撤退。九州を島津の手から守った宗茂を秀吉は激賞し、大友の一家臣から豊臣直属の大名に取り立て、筑後柳川13万石を与えた。この時宗茂、わずか20歳のことであった。

二の鍵 「義侠心」

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(公益財団法人鍋島報效会 所蔵)

豊臣大名として歩み始めた宗茂はその後、九州平定や小田原征伐など、次々と武功を挙げていく。そして全国の大名が居並ぶ中、秀吉からこう讃えられた。

秀吉「東の本多忠勝、西の立花宗茂。これぞ東西無双の者どもである」

本多忠勝は、生涯戦で傷一つ負うことがなかったと言われる、徳川四天王最強の武人。宗茂は23歳にして、その本多と並び称されるという名誉を受けた。しかしこの後、さらなる苛烈な戦場に身を置くことになっていく。
文禄元年(1592年)、天下統一を果たした秀吉は大陸進出を目論み、朝鮮出兵を号令。世に言う、「文禄・慶長の役」がはじまった。だが凍死者が続出するほどの凍てつく寒さに加え、食糧不足、そして明からの大軍が日本軍を襲う。そんな中、朝鮮半島南部・蔚山(うるさん)で加藤清正軍7000が敵軍5万に包囲される事件が発生。

疲弊した武将たちが救出を躊躇するなか、宗茂は一人立ちあがる。そして救出を待つ清正軍より少ない1000の兵で敵軍に突撃、清正救出を見事成し遂げた。清正は涙を流して喜んだという。
やがて秀吉が死去し、日本中の武将たちが朝鮮から帰国。だが日本では、更なる苛烈な戦いが宗茂を待っていた。慶長5年(1600年)、秀吉の死後、台頭する徳川家康に対し石田光成が挙兵。争いは日本中の大名を巻き込み、ついに天下分け目の一大決戦・関ヶ原の戦いが勃発する。東軍につくか、西軍につくかーー。日本中の大名が勝ち馬に乗ろうと逡巡する中、宗茂は迷わず即断した。

宗茂「我が立花は西軍につく!」

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今日の立花があるは秀吉殿のおかげ。秀吉殿亡き今こそ、その恩義に報いるとき。宗茂はそう考えたのだ。だがこの宗茂の決断に反対する者もいた。加藤清正や妻である誾千代。だが、宗茂の決意が揺らぐことはなかった。
関ヶ原へ向かう途中、宗茂は要衝である琵琶湖南岸・大津城の攻略を命ぜられる。そして9月15日、ようやく大津城を陥落。宗茂は本戦参加へ勇み立った。だがその夜、驚くべき報せが宗茂にもたらされる。ーー西軍敗北。なんと関ヶ原の西軍本体が、わずか半日で敗れ去ったというのだ。12月、立花家は取り潰しとなり、御家断絶。領地もすべて没収されることとなった。

三の鍵 「大名浪人」

関ヶ原の戦いの翌年、宗茂は肥後熊本にいた。取り潰し後、その器量を惜しんだ加藤清正が、宗茂を家臣ともども食客として迎えてくれたのだ。だが西軍についた宗茂がいつまでも厄介になっていれば、清正へ迷惑がかる。なにより宗茂には、なんとしても成し遂げたい悲願があった。それは、立花家を再興すること。自らの選択がために、婿として入った立花家を潰してしまい、妻・誾千代や家臣たちに苦労をかけているーー。宗茂はお家再興を家康に願い出るため、一路京都へ上る。

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こうしてはじまった京都暮らし。だが元13万石の大名と言えど、今は一介の浪人。生活は困窮し、日々の食事にも事欠くあり様だった。ここまで落ちぶれた自分が、家康殿に御家再興を願い出る機会など来るのかーー。宗茂はこの時、ため息ばかりの日々を送っていた。だが宗茂の支えとなったものが、一つだけあった。それはともに京都までついてきてくれた20人の家臣たち。家臣たちは時に托鉢に回り、時に内職に励み、時に畑仕事をすることによって、食い扶持のない宗茂を支えた。どれほど生活が苦しかろうと、宗茂は決して一人ではなかった。
だがそんな宗茂に追い打ちをかける報せがもたらされる。妻・誾千代、死去ーー。熊本に残してきた誾千代が亡くなったというのだ。誾千代の生きている間に立花家を再興することは叶わず、宗茂は自らの不甲斐なさをただ詫びるしかなかった。

こうして浪人生活が数年たった頃。宗茂のもとにある人物が訪れる。徳川四天王が一人、本多忠勝。本多は宗茂に想いもかけぬ言葉をかける。「秀忠様に仕える気はあるか」。なんと家康の跡取りである徳川秀忠が、宗茂に面会を求めているというのだ。
慶長11年(1606年)、宗茂は秀忠と面会を果たす。御家再興を目指す宗茂と家臣たちのことを伝え聞いていた秀忠は、実際に会った宗茂の人柄に惚れ込んだ。そしてなんと、宗茂を奥州棚倉1万石の大名に取り立てたのだ。宗茂は、立花家再興の道を切り開いた。加えて宗茂は秀忠の側近に取り立てられ、戦国の世の生き証人として、武士の心得や戦での振る舞い方を指南する役目を仰せつかった。その後も秀忠は宗茂を重用し、宗茂もその信頼に全身全霊をもって応えていく。

そして徳川に忠勤を励むこと14年ーー。宗茂に人生最大の幸運が訪れる。秀忠に呼び出された宗茂は、秀忠直々にこんな命を賜った。「旧領・柳川への再封を命ずる」。宗茂は平伏し、涙した。関ヶ原で徳川に弓を引いた自分に、元の領地の大名に戻れと言ってくれたのだ。それは唯一、宗茂だけに訪れた、奇跡の瞬間だった。翌元和7年(1621年)、立花宗茂は再び柳川の土を踏んだ。関ヶ原の敗戦からすでに、21年の月日が経っていた。

六平の傑作

「謀反」「裏切り」「下剋上」の戦国の世に、こんな
清廉潔白な武将がいるとは、驚きでした。
しかも、猛烈に強い!そこがまたかっこいい。
正直者が最後に報われた。いい話に心洗わました。