#79 2015年11月20日(金)放送 関ヶ原「島津退き口」 島津義弘

島津義弘

今回の列伝は薩摩の猛将として知られる戦国武将・島津義弘。文禄・慶長の役では武勇を轟かせ、「鬼島津」と恐れられた。66歳で関ヶ原の戦いに参戦、西軍につくも、勝負が決したあと、東軍の大勢力に囲まれる。絶体絶命の危機から見せた奇跡の退却劇が、島津義弘の名を歴史の残した「島津の退き口」である。語り継がれる猛将の生きざまに迫る!

ゲスト

ゲスト 歴史作家
桐野作人

今回の列伝は、薩摩の猛将・島津義弘。天下分け目の関ヶ原の戦いに西軍として参加した義弘は、合戦の最後、東軍に包囲される。そこで義弘が決行した驚愕の退却劇「島津退き口」により、あらゆる猛将から尊敬され、歴史に名を刻むことになった。絶体絶命の窮地に立たされた義弘がとった作戦、その真相とは一体?

一の鍵「犠牲」

画像

戦国時代、九州でも多くの大名が乱立する中、島津義弘は薩摩の一勢力・島津家の二男としてこの世に生を受けた。島津四兄弟と呼ばれる優秀な兄と弟たちとともに、義弘は「軍司令官」として南九州統一を目指す。如何にして巨大勢力を打ち破るか?考え抜いた義弘は「穿ち抜け」と呼ばれる力づくの戦術を多用。さらに、北九州最大勢力である大友宗麟が攻めてきたときには、囮となって引き付け、伏兵で包囲するという「釣り野伏せ」を成功させ、見事、不利な状況から勝利をもぎ取ってみせた。犠牲の多い義弘の戦術を支えたのは、家来たちを惹きつけてやまない人柄であった。

二の鍵「鬼島津」

画像

豊臣秀吉の九州平定軍25万に敗北した島津家は、その後、豊臣の大名として臣従するようになる。義弘は兄・義久の代わりに京都に滞在し、秀吉からの指示を本国に伝えるという役割を担うようになる。だが、重い賦役・軍役などをこなせない島津に対し、三成から圧力がかかり、義弘は一人苦悩することになる。だが、そんなとき秀吉の朝鮮出兵が始まる。武功をたて、島津家を守ろうと考えた義弘。苦労しながらも7年目に伝説的な勝利をつかみとる。鬼と呼ばれた義弘の逆転の秘策に迫る。

三の鍵「島津退き口」

画像

朝鮮から帰国した義弘を待っていたのは、天下分け目の関ヶ原の戦い。東軍7万を率いる徳川家康に対し、西軍8万をもって石田三成が布陣する。当初、義弘は家康との約束で東軍につく予定であった。しかし、事態は急変する。三成が大坂城で東軍諸将の妻子を人質に取り始めたのだ。当時、大坂には兄・義久の娘にして、義弘の息子の妻でもあった亀寿が滞在。東軍につけば、亀寿に危険が及ぶと考えた義弘は西軍へつくことを決断する。

義弘は西軍の指揮をとる三成の側面を守る二番備えを任されることになった。先鋒を後押しし、いざとなれば三成を守る重要な役割であった。戦いは、宇喜多秀家、島左近の活躍により西軍優勢で進む。しかし、正午過ぎ、小早川秀秋が裏切ると、西軍は一挙に崩壊。三成も敗走を余儀なくされてしまう。東軍の中に取り残された義弘は、切腹を覚悟するも、甥の豊久が懸命の説得により断念。薩摩への帰還を目指すことを決意する。ここで義弘は、前代未聞の決断を行う。それは後ろではなく、前方の東軍の最も猛勢の中を突破して退却しようというもの。退くにも島津の退き方がある。それこそ義弘の思いであった。義弘は家康本陣に迫ると、急きょ進路を変更し、関ヶ原を脱出。東軍・井伊直政がこれを追撃するも、部下が命を捨てて盾になる捨て奸という戦術をとり、ついに義弘は脱出に成功。大坂で亀寿を取り戻すと薩摩への帰還を見事に果たして見せた。島津退き口により、義弘は最も苛烈な苦境を乗り越えた男として歴史に名を刻むことになる。

六平の傑作

薩摩男子の原点が、この人だったんだねぇ。
強いだけでなく、情にも熱い。それが、「島津退き口」なんていう
離れ業をやってのけられた理由だね。
上司になったら、命がけで使えないといけないから、
ちょっと怖いけど、会ってみたい人でした。