#74-75 2015年10月9日(金)放送 織田信長・絶体絶命スペシャル

織田信長・絶体絶命スペシャル

今回の列伝は天下布武・織田信長SP。生涯戦いの連続であった信長だが、裏切り、油断・・多くの窮地があった。身近な母、弟に裏切られた「稲生の戦い」、今川義元率いる2万5000の大軍に囲まれた「桶狭間の戦い」、浅井長政の裏切りによって挟み撃ちにされた「金ヶ崎退き口」,10年にも及ぶ宗教勢力との戦い「石山本願寺合戦」、そして「本能寺の変」・・信長が陥った絶体絶命の危機に迫る!

ゲスト

ゲスト 作家
夢枕獏
ゲスト 歴史学者
本郷和人
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生涯、戦いの連続であった織田信長。身近な母、弟に裏切られた「稲生の戦い」。今川義元の大軍に囲まれた「桶狭間の戦い」。浅井長政の裏切り、「金ヶ崎の退き口」。長年に及ぶ宗教勢力との戦い「石山本願寺決戦」。そして「本能寺の変」・・信長が陥った“絶体絶命”の危機に迫る!

稲生の戦い

最初の危機は“身内の裏切り”。
少年時代の信長はうつけと呼ばれ周囲を困惑させていたが、父信秀だけは信長を将来の跡継ぎ候補と目し、英才教育を施していた。しかし、1552年(天文21年)父・信秀が亡くなると尾張領内で信長を裏切るものが続出。信長は辛くも勝利を収めていくが、1556年(弘治2年)信長の身に想定外の事態が起こる。それは、弟と母親の裏切り。しまいには、信長の家臣たちも信長に刃を向けたのだ。
この“絶体絶命の窮地”を信長はどう乗り切ったのか?

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桶狭間の戦い

第二の危機は“桶狭間の戦い”。
尾張平定を目前にした信長と駿河の今川義元との熾烈な戦い。

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1560年(永禄3年)今川義元が2万5千の大軍を率いて尾張に侵攻を開始する。信長軍はわずか4000人。迎撃か、籠城か。決断を誤れば、織田家は滅亡する…この戦いに、信長が勝利の運を託したもの。それは、信長親衛隊だった。

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金ヶ崎の退き口

第三の危機は戦国史上有名な撤退戦“金ヶ崎の退き口”。
足利義昭を伴って上洛を果たした信長は、いよいよ天下獲りに乗り出す。まずは京都での地盤を固めるため、北近江を支配する浅井長政に妹のお市を嫁がせ強い同盟関係を結んだ。しかし、1570年(元亀元年)。3万の兵で越前の朝倉義景へ侵攻を開始した信長は、同盟関係にあったはずの“浅井長政の裏切り”にあう。朝倉と浅井に挟み撃ちにされた信長。しかし、妹・お市の決死のメッセージや家臣らの奮闘により、命からがら京へ逃げのびた。

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石山本願寺決戦 壱

第四の危機は“石山本願寺決戦”。
天下統一の野望に突き進む織田信長にとって、大坂は是が非でも支配化に置かねばならない場所だった。しかし、その地を支配していたのは浄土真宗の僧・顕如。莫大な資金をもつ顕如は多くの僧兵を抱え、強大な軍事力をもつ、戦国大名以上の勢力を誇っていたのである。顕如は全国の門徒へ、一揆による信長との戦いを指示する「檄文」を送り付けた。

「各々身命を顧みず、忠節をぬきんづべきこと有り難く候」

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ゲリラ戦を仕掛けてくる一向一揆衆に信長軍は、防戦一方となる。
そして、“絶体絶命の窮地”に陥った信長は、後世に悪名を轟かせる究極の決断をする…

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石山本願寺決戦 弐

信長と顕如との戦いは新たな局面を迎えようとしていた。
一向一揆を制圧した信長は大坂へ侵攻。いよいよ、本願寺を包囲する。そして、1576年(天正4年)大阪湾で織田水軍と毛利水軍が激突、木津川口の戦いが始まる。しかし相手は、海賊として名を馳せた村上水軍を従え、当時最強と言われた毛利水軍。またしても信長軍は防戦一方となる。この最大のピンチを、信長はとんでもないものを作り、見事乗りきる。その秘密兵器とは…

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本能寺の変

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この世の決まり事や伝統をことごとく破壊し、天下統一へと突き進む信長。しかしそれは、信長自身でさえ気づかない、最後の窮地を招くことになる。
1582年(天正10年)6月。信長は、一人の家臣の予期せぬ謀反によって、命を奪われた。最後の危機はついに乗り越えることができなかった…天下統一を目前にした、49年の生涯だった。

六平の傑作

戦国の扉を開いたこと

とことん絶体絶命に陥りながらも、
信長が、どんどん前に進まなければ
秀吉も家康もなかった。
危険承知で扉を開けていった功績がすごいと思う。