#69 2015年9月4日(金)放送 最後の幕臣 榎本武揚

榎本武揚

今回の列伝は、最後の幕臣・榎本武揚。新政府軍に最後まで抵抗し、函館に新国家「蝦夷共和国」を樹立するものの、ほどなく陥落した。しかし、函館戦争の首謀者だったのにもかかわらず、何故処罰されることなく、明治新政府入りし、日本の近代化に尽すことができたのか?波乱の生涯に迫る。

ゲスト

ゲスト 作家
佐々木譲

今回の列伝は最後の幕臣、榎本武揚。明治新政府に最後まで抵抗し、蝦夷共和国を樹立するものの、程なくして陥落。死罪は免れないと思われたが、明治政府で獅子奮迅の活躍していくことになる。なぜ、箱館戦争の首謀者は明治という新たな時代の礎を築くことになったのか…。波乱の人生の謎を解き明かす。

誕生〜青年時代

榎本武揚は御家人の父、榎本円兵武規の次男として生まれる。儒学者として幕府に任官させたいという父の考えから、当時の最高学府、昌平坂学問所に入学し、儒学に専念する。その後、ジョン万次郎が経営する中浜塾に通い英語を学ぶ。中浜塾を卒業後、箱館奉公、堀利熙の従者として蝦夷地を巡察。この時、南下政策をとるロシア艦隊に遭遇。当時、外交の最前線といった感のあった箱館で西洋列強の脅威を肌で感じ取った榎本は国防のことを真剣に考えるようになった。
 蝦夷地巡察を終えた榎本は長崎海軍伝習所に入学。榎本は儒学者より技術者の適性が高かったのか、伝習所内で頭角を現し、優秀な成績で卒業。その後、江戸に設置された海軍操練所の教授方に任命された。榎本の海軍、幕臣人生はここから始まったのである。

画像
オランダ留学時代の榎本

オランダ留学

文久2年、幕府がオランダに発注した軍艦、開陽丸の完成次第、その軍艦に乗って帰国せよと命を受け、榎本は幕府の命運を握る留学生としてオランダに渡ることになった。オランダは、海洋国家として栄え、アジアに植民地を持つなど、世界に冠たる国として栄えていた。なぜ、オランダは西洋の小国でありながら、列強に伍することができるのか。榎本はオランダ、ハーグにて、専門分野の蒸気機関の他に船舶運用術、砲術などを学んだ。幕府の海軍操練所の若き教授であった榎本はその秘密が海軍力にあると信じ、蒸気機関や船舶運営術、砲術、などを学ぶ。しかし、それらの中にオランダ繁栄の秘密を見つけることはできなかった。
そして榎本は留学先のオランダで一冊の書物、海律全書と出会う。そこには海上での法律や条約の趣旨など外交交渉の決まりごとが記されていた。熟読した榎本は、以来この本を肌身離さず持ち歩くようになる。

帰国〜江戸城の無血開城

慶応3年3月、5年の留学生活に終止符を打ち、帰国。しかし、帰国した榎本を待ち受けていたのは、新しい政治体制を巡る未曾有の大混乱だった。公武合体を策した幕府は弱体化、薩摩、長州が幼い明治天皇を抱え、幕府を揺さぶり続けていた。オランダ留学で学んだ知識、経験を発揮すべく、榎本は幕府の危機の渦中へと飛び込んでいくことになる。

10月、徳川慶喜が大政奉還。徳川慶喜の辞官、納地の問題をめぐり、旧幕府軍と新政府軍間の緊張が高まった。帰国後、順調に出世を果たし、幕府の海軍副総裁となっていた榎本は開陽丸の艦長として薩長軍と戦うことになる。慶応4年、元旦、阿波沖で榎本率いる旧幕府連合艦隊が薩長の艦隊とついに武力衝突。当時最先端の軍艦、開陽丸を率いる榎本は薩長軍に圧勝する。しかし、同日行われた鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は敗れてしまう。この敗戦後、徳川慶喜は戦いを放棄し、江戸へ帰ってしまう。海戦の勝利で意気あがっていた榎本であったが、やむを得ず、江戸に引き揚げた。江戸に帰った後も、主戦論を唱えたが、榎本の主張は受け入れられず、270年続いた徳川幕府は終焉を迎える。江戸城の無血開城である。

画像
榎本艦隊 品川沖脱走

蝦夷共和国

江戸城の無血開城に伴い、榎本は新政府の要求に応じて4隻の軍艦を引き渡した。しかし、榎本は開陽丸などの主力の軍艦4隻はその指揮下に残し、新政府軍に抵抗する旧幕府将兵たちに力を貸していた。そして慶応4年8月、開陽丸を含む軍艦4隻に抗戦派の旧幕府兵達を乗せて江戸湾を脱出。新政府の勢力がまだ及んでいない新天地、蝦夷に針路をとった。脱出する際、榎本は「薩摩、長州が私意によって徳川家の領土を没収したことを非難し、皇国のためにあぶれた人々を集めて和をもった基業を興そう」、という趣旨の宣言文を残している。あくまでも明治政府であぶれてしまうであろう旧幕臣達を蝦夷地にて開拓使として雇い、北方の警備を強化することを大義名分として掲げていたのである。

榎本軍は蝦夷地に上陸した翌月には蝦夷地を平定することに成功。そして賊軍となった榎本には独立国家の樹立という秘策があった。平定した蝦夷地の独立を認めさせ、列強諸国に調停役を頼み、新政府と和平を結ぶことを目論んでいたのだ。榎本はオランダ留学で学んだ国際法の知識を活かし、列強諸国の公使達との交渉に臨む。そして、ついにはアメリカとフランスからは交戦団体権を承認され、実質的に独立国家として認められるところまでこぎつける。ところが、多勢に無勢の榎本軍、新政府軍が蝦夷地に上陸し始めると、各地で敗戦を重ねていく。

画像
五稜郭酒宴之図

黒田清隆

榎本軍の劣勢を知るや列強諸国も中立を破棄し、新政府軍に肩入れし始め、榎本軍は孤立無援に陥る。すでに、武器弾薬、食糧も底を尽きつつあったある時、榎本のもとに降伏勧告が届けられる。差出人は薩摩の陸軍参謀、黒田清隆。黒田は、これ以上の戦いは日本にとって何一つ益はないと、講和を模索していたのだ。しかし、榎本は降伏勧告を拒否。そして、戦火に焼くのは忍びないとして、オランダから持ちかえった海律全書を黒田の元へ贈った。海律全書を受け取った黒田は感動し、その返礼として酒と魚を榎本の元へ贈り届けた。

明治2年5月16日、榎本は黒田から贈られた酒と魚で酒宴を開く。酒宴の際、疲弊しきった部下を見かねた榎本はこれ以上の戦いは無益であると判断、ついに降伏を決断した。酒宴の後、政府軍に降伏の意を伝えるとともに、自分の命と引き換えに部下の助命を乞うため自刃を図った。しかし、周囲の制止によって自刃は失敗、翌日投降した。

画像
頭を丸め、助命嘆願する黒田

助命嘆願運動

箱館戦争の首謀者として捕えられた榎本の死罪はもはや免れないように思われた。そんな中、箱館戦争で榎本と相まみえた黒田清隆は榎本の赦免を主張。自身の頭を丸めてまで、助命嘆願運動に奔走した。当時の日本政府が必要としていた知識を身に付けていた上に、海律全書を送られたことなどから、榎本が優れた人柄の持ち主であると黒田は確信していたのだ。しかし、木戸ら長州派の面々は「虎を野に放つ如きもの。断じて許せない」と、あくまで処刑を主張。
当時の議会に列席する人々はどちらの議論にも一理あるとし、西郷隆盛にその裁断は委ねられることとなる。西郷は徳川武士たちを救おうとし、北海道まで連れて行ったこと、徳川家の恩と情を忘れない義と情の人間であることを高く評価し、「榎本を斬首にするのはもってのほかである」と裁決を下す。この西郷の裁断は、榎本赦免の決定打となったといわれている。

明治政府入り

箱館戦争から3年後の明治5年、榎本は赦免され出牢。命を恩人である黒田の誘いにより新政府入りを決意した。明治政府に入ると、北海道開拓使を皮切りに次々と大仕事を成功させていく。明治7年には特命全権大使に任命され、ロシアとの領土交渉に挑み、粘り強い外交交渉の末、樺太・千島交換条約を締結する。樺太・千島交換条約は日本が初めて列強諸国に対し、平等の地位に立って締結した条約であった。この成果は、当時の外務省から高く評価され、加えて無事に交渉を成立させたことでロシア側からも非常に高く評価された。その後も、榎本は外交官として、不平等条約改正のため、粉骨砕身し、明治という新たな時代の礎を築いていったのである。

六平のひとり言

なによりも感動したのは、榎本と黒田の友情。
敵同士でありあがら、2人が見つめていたのは
ともに、新しい日本の未来だった。
だからこそ、友情が芽生え、榎本の新時代への
道が開けたんだと思ったな。