#66-67 2015年8月14日(金)放送 悲劇の戦艦 「大和」スペシャル

悲劇の戦艦 「大和」スペシャル

第一部 夜9:00〜9:54
第二部 夜10:00〜10:54

今回の列伝は、日本帝国海軍、栄光の一番艦・戦艦「大和」スペシャル。国家予算の4%余りをつぎ込み、「大和が沈む時は、日本が沈む時」と謳われた不沈戦艦。しかし、その世界最大の主砲が火を吹いた海戦はわずか1回だった。戦わない戦艦は「大和ホテル」の汚名を着せられる。そしてあまりの悲劇的な最後の指令「水上特攻」。その栄光を歴史に刻むことなく、鹿児島沖に撃沈した「大和」とは一体何だったのか?悲劇の戦艦「大和」の生涯に迫る!

ゲスト

ゲスト 漫画家
松本零士
ゲスト 大和ミュージアム館長
戸髙一成
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誕生前夜

第一次世界大戦後の大正10年、日本はアメリカ、イギリスと共に軍拡競争に歯止めをかける為、ワシントン海軍軍縮条約を結ぶ。しかしその内容は日本にとって不平等なものだった。主力艦の保有比率は、イギリス5、アメリカ5に対し、日本は3。条約により日本は、新たな戦艦を建造出来ずにいた。昭和6年、満州事変勃発。領土の拡大を目指す日本は軍備増強へと傾いていく中、遂に日本はアメリカ政府に対し条約の破棄を通告。日米両国は、お互いを仮想敵国とみなし、戦艦の建造を激しく競い合うようになった。そんな中、日本海軍内ではある極秘計画が進められていた・・・。

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秘密計画

政府が軍縮条約を破棄するおよそ2ヶ月前、当時帝国海軍のナンバーワン技術者だった男にある極秘の指令が下される。男の名は、造船大佐・福田啓二。福田に課せられた指令は「世界最大の46センチ砲を搭載した不沈新鋭戦艦の研究に着手すべし」というものだった。
戦艦の数では到底かなわないアメリカに対抗すべく、数ではなく質で勝つという戦略であった。世界で最も大きな主砲を持つ戦艦は、アメリカにとって大きな脅威となるはずだ。この計画は国家の最高機密となり新戦艦は「A-140」と名付けられた。

巨大な主砲に加えてもう一つの難題は、極めて沈みにくい船を求められたことだった。魚雷を受けても穴のあかない船をめざす。設計図に描かれた外側の装甲はなんと410mmものぶ厚い鋼鉄であった。その他、万一浸水が起こった時に船のバランスを保つための注排水システムなど当時の最新鋭の技術が注ぎ込まれた、「A-140」の基本設計が出来たのは、研究の着手から一年半後のことだった。全長263m、全幅38.9m、排水量6万5千トン。紛れもなく世界最大の船であった。

昭和12年11月、新戦艦の建造は広島県にある呉海軍工廠において始まる。この時の最重要課題は、機密の保持。46cmの主砲は、敢えて「九四式40cm砲」と名付けられ、作業員にも事実は知らされなかったという。昭和15年8月8日、帝国海軍がその威信をかけて作らせた新戦艦が遂に完成。設計から完成まで、丸7年。のべ3百万人以上もの人員を要したという。極秘の新戦艦は「大和」と命名された。

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初陣〜ミッドウェー海戦〜

新戦艦大和は連合艦隊の旗艦となる。昭和17年5月29日、ミッドウェー攻略作戦に向けて出撃の時を迎える。大和に乗り込んだのは連合艦隊司令長官・山本五十六。先発するのは空母で構成された機動部隊。大和は艦隊同士の決戦に備えて、機動部隊の後方に配備された。日本軍はまず、機動部隊でアメリカに打撃を与え、その後、大和を含む戦艦の主砲で敵を撃破する計画であった。
しかし、実はこの時アメリカ軍によって暗号が解読されており、日本の作戦はアメリカ側に筒抜け状態だった。日本側の行動予定を知るアメリカ軍は150機余りの戦闘機を出撃。先行していた日本の機動部隊に襲いかかる。戦いの結果は無惨なものだった。日本側は空母4隻を失い、作戦は中止となる。結局大和は46㎝主砲どころか、一発の砲弾を撃つ事もなく日本へと引き返すこととなった。

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死闘〜レイテ沖海戦〜

昭和17年8月、太平洋の日本海軍基地トラック島沖に錨を下ろした大和に出番は無かった。太平洋の戦いは既に、戦艦ではなく航空機の数によって勝敗が決まるものとなっていたからだ。一度も戦わない大和に対して『大和ホテル』の汚名が着せられる。空調設備や、豪華な食事、軍楽隊まで備えた大和は、まるでホテルだと皮肉られたのだ。この頃、太平洋の各戦線で、日本軍は著しい劣勢に立たされていた。
攻勢を強めるアメリカは、ダグラス・マッカーサー率いる南太平洋方面軍をフィリピンのレイテ島に上陸させた。そんな中、大本営はレイテ島奪還に向けて日本の海軍史上最も大規模な作戦『捷(しょう)一号作戦』を発令した。作戦の概要は空母機動部隊が囮となってアメリカの艦隊を引きつける間に、大和を含む戦艦部隊をレイテ湾に突入させ、上陸中のアメリカ輸送船団を殲滅させるというものだった。ここに至り、再び大和が誇る世界最大の46㎝砲に活躍の場が与えられた。大和を率いてレイテ島奪還作戦を託された指揮官は栗田健男中将。レイテ沖で囮の空母部隊を率いたのは小沢治三郎中将である。大和は、10月22日レイテ湾へ向け出撃。大和が誇った未曾有の巨砲が、遂に火を吹く時が来た。小沢の機動部隊は首尾よくアメリカ艦隊を引き付けることに成功する。レイテ湾突入作戦は成功へと導かれようとしていた。しかし…ここで大和栗田は突撃を中止し、Uターンをしてしまう。大和は、作戦を遂行することはなかった。こうして20世紀世界最後の大海戦と言われるレイテ沖海戦は幕を閉じ、帝国海軍は事実上、壊滅状態となった。

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大和死ス

昭和20目年4月1日、米軍はついに沖縄に上陸を始める。上陸作戦部隊約18万3千。空前の大部隊だった。沖縄の海は、艦船によって埋め尽くされ、灰色の鉄の塊で覆ったような異様さだったという。4月5日、連合艦隊司令長官・豊田副武は、『天一号作戦』を発動する。それは、大和をアメリカの艦隊がひしめく沖縄に突入させ、敵艦隊と応戦。自ら沿岸に座礁し、砲台となることも辞さないという「水上特攻」作戦だった。しかし、航空隊の援護もないこの作戦は、沖縄に辿り着けるかさえ分からない無謀なものだった。世界最大の戦艦は、三千人の乗組員と共に帰る見込みのない最期の航海に出撃したのだった。

沖縄に抜けて出撃した大和。その対空警戒レーダーが敵編隊の機影を捉えた。アメリカ側の最初の急降下爆撃により大和は、爆弾二発を受ける。そして午後1時37分、魚雷3本が左舷中央部に的中。更に2本がまたもや左舷に命中。次第に船体が傾いていった。2時20分、傾斜が20度となり、復元不可能となる。大和に終わりの時が近づいていた。そして午後2時23分。傾斜が35度まで達した時、大和は左舷から転覆し始めた。海に没した直後、火薬庫に引火、凄まじい大爆発が発生したのだ。海中から火炎と噴煙が立ちのぼり、その高さは千メートルに達した。それが戦艦大和の最期だった。

六平のひとり言

様々な問題を抱え、突き進んでいってしまった太平洋戦争。
その悲劇の象徴がまさに大和だったと思います。
多くの人の、悔しさ、悲しさ、涙、憤り、怒り、後悔、
そんな耐えられない思いを背負って、大和は今も眠りつづけているに違いありません。