#65 2015年8月7日(金)放送 江戸城 天下泰平へ家康の計略

江戸城

今回の列伝は、日本随一の巨大城郭を誇る「江戸城」。1603年、征夷大将軍となった徳川家康は江戸に開幕、翌年江戸城の大普請計画を発表した。そこには家康のある計略が込められていた・・・。城の縄張りを命じられた築城の天才・藤堂高虎の工夫とは?そして日本最大といわれた天守の秘密とは?江戸城が残した傑作に迫る。

ゲスト

ゲスト 歴史学者
本郷和人
ゲスト 江戸歩きの達人・作家
黒田涼

今回は、徳川家康が天下泰平の世を築く拠点とした、「江戸城」を取り上げる。
そもそも江戸城は、室町時代の武将、扇谷上杉家の太田道灌が築城した。その後近世になり、家康が江戸の地に来た後、段階的に改修した結果、日本最大の面積を誇る城郭となった。そんな江戸城築城には、天下泰平の世を目指した家康の、大胆にして緻密な計略が張り巡らされていた。城の防御の要である濠、門、石垣、天守、それぞれに隠された秘密と家康の計略について、歴史学者 本郷和人さんと江戸城歩きの達人・作家 黒田涼さんと共に解き明かしていく。

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濠の秘密

江戸城とは、本丸周辺だけでなく、外濠の内側全てを意味する。
まず訪れたのは、飯田橋に残る外濠にあった見附・牛込見附の跡。ここに4、5階建てのビルの高さに相当する見附が存在していた。24時間、城内に出入りする人々を見張り、侵入しようとする敵からの守りを固めていたのだ。家康は防御を中心とした都市づくりを目指していた。

そもそも家康の家臣たちは、江戸に城を築くことに反対をしていた。当時の都と言えば、京都であり大阪。東の田舎であった江戸に移るなど考えも及ばなかったのである。しかし、家康は江戸の地が、海に面し交通の要衝に位置していたことや、将来の町作りのことを考え、反対を押し切り、江戸に居を構えることを決断する。
家康から築城の指揮を任されたのは、宇和島城や今治城を築城した藤堂高虎だった。高虎は敵の侵入を許さない堅牢な城造りの名人として知られていた。そんな高虎がまず始めに行ったのが、防御の要となる「濠」の建設。そして飲み水の確保だった。千鳥ヶ淵や牛ヶ淵は飲み水確保のために作られた、人工の池だった。そんな濠には、家康の周到な計画が隠されていた。それは、江戸城の縄張り図に見られる。城を取り囲む濠が、「の」の字に掘られているのだ。「螺旋式」と呼ばれる構造の江戸城は、攻撃も防御も全方向になるものの、城を拡張しようとした時、必要な規模だけ濠の掘削を進めていくことが出来る。永遠に城を拡張していくことが可能なのだ。つまり家康は徳川幕府安泰による、継続的な都市づくりを計画していた。

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門の秘密

次に訪れたのは、桜田門。江戸城に設けられた門は、外郭・内郭を合わせると56カ所にも及ぶという。そんな門にも家康の計略が隠されていた。江戸城の門は枡形門と呼ばれる造りになっている。敵は第一の門、高麗門を突破出来たとしても、第二の門、櫓門や正面など三方向からの攻撃に備えなければならない。さらに、門の高さは当時身長が150センチあまりの人々にとって、巨大なものであった。その圧倒される程の門の大きさ、門を支える石垣の精緻な造りこそ、家康の狙いだった。徳川の権力には叶わないと思わせることで、反対勢力を押さえ込もうと考えたのだ。

そして濠、門と共に防御の拠点となるのが、櫓。江戸城には30を超える櫓が設けられていた。しかしこの櫓の数は、戦う城として考えると、数が少ない。さらに石落としも実際には使われていなかったのではないかと、黒田さんは推測する。江戸城は戦う城ではなく、徳川幕府の権力の大きさを象徴するもの、戦国時代の集大成とも言うべき城なのである。

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石垣の秘密

江戸城の築城に用いられた石の数は、100万個とも200万個とも言われる。
石垣造りをしたのは全国の諸大名たち、いわゆる天下普請だった。訪れたのは、北の丸にある清水門。ここでまず注目したのは、石垣の積み方。石垣の積み方には大きく分けて3つある。野面積み、打ち込みハギ、切り込みハギである。しかし、どのように石を切り、そして積み上げていったのか、未だに謎のままだという。

そして江戸城の石垣をよく見ると、そこかしこに謎の文様が刻まれている。これは、大名の刻印。中でも清水門には江戸城の中で最も多くの刻印が残されている。松江藩 堀尾忠晴や津山藩 森忠政、福岡藩 黒田長政の刻印も見られる。清水門の石垣は、10家以上の大名が関わって建設されたと言われる。これこそが家康の“石垣戦略”。堅牢な城を造ると同時に、全国の大名に石垣づくりを命じることで、莫大な出費を課し、勢力の弱体化を図る、まさに一石二鳥の戦略だった。

石垣の建造を命じられた大名は、石の名産地であった伊豆の海岸に殺到。徳川への忠誠を示すため、その成果を競った。多くの大名たちが石を切り出すため、海岸線の地形が変わったとも言われている。数十トンもの巨石は、修羅と呼ばれるソリ状の運搬具で運ばれ、石船で江戸城に。第一期工事では西国大名約30家に命が下り、第二期、第三期工事では、東国大名や御三家までが動員されたという。家康が大名に運ばせた石船の数は約3000艘。その作業は壮絶を極め、1606年には、加藤清正や黒田長政らの石船200艘が暴風雨により沈没。多くの犠牲を払って、石垣は作られたのだ。

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天守の秘密

今はその姿を見ることが出来ない江戸城の天守。かつては一体どんな姿をしていたのか?家康が造ったのは、大阪城よりはるかに大きく、当時日本最高の高さを誇った天守だった。さらに、3代将軍 家光は、家康の時代より巨大な、高さおよそ50メートルの天守を造ったという。未だかつてない巨大天守。そこには、「見る者たち」を意識した、徳川の計算があった。
訪れたのは、天守の高さをイメージ出来る丸の内のオフィス街に建つ、丸の内ビルディング。当時、江戸城からは、富士山はもとより房総半島や伊豆、大島まで見えたという。巨大な天守を造ったのは、徳川幕府の威光を世に知らしめるため。権力の大きさを象徴するのが、天守の役目だったのである。

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江戸の町の秘密

家康は晩年、天台宗の僧侶 天海を幕府の宗教ブレーンとして登用し、様々な助言を受けていた。江戸に城を築城することを決めたのも、天海の助言があったからだと言われている。
実は、江戸の町は、天海の陰陽道に基づく「四神相応」の土地だという。「四神相応」とは、青龍、白虎、朱雀、玄武の四神が存在するにふさわしい場所をいう。北に山があれば南に向かって斜面となり、日当りがよく作物が育つ。東に川、西に街道があると、交通の要衝となり、その土地は栄える。江戸は、風水的に吉の相を持っているというのだ。

重要文化財に指定されている、「御本丸方位絵図」。江戸城造営に関わった、甲良(こうら)家に代々伝わる絵である。この絵を見ると、江戸城を中心に、各所の方位を細かく考慮していたことが分かる。そして天海は、江戸の町に壮大な仕掛けを施す。まずは江戸城を中心とした寺の配置。鬼門となる北東と裏鬼門となる南西の方角に4つの寺を置き、あらゆる悪鬼を封じ、城郭の内部を守り固めたのだ。

次に天海は、平将門の首塚を、五街道の出入り口にあたる門に祀ることによって、街道を通じ江戸に侵入する悪鬼を封じる守護神にした。その後、家康が死の床に伏した際、天海に託した遺言は、鬼門にある4つの寺に、自分を神として祀るように、というものだった。「末永く泰平の世を築きたい・・・」家康は死してなお、自らの力で江戸の繁栄と、人々の幸せを守り続けたいと願ったのかもしれない。