#50 2015年5月1日(金)放送 「関が原の戦い」小早川秀秋

小早川秀秋

今回の列伝は戦国武将・小早川秀秋。天下分け目の関が原の戦いにおいて、勝敗を決めたのはわずか18歳の武将小早川秀秋の決断であった。なぜ秀秋は西軍から東軍へ裏切ったのか?後見人として秀吉に目をかけられて育ったはずが、他家へ養子に出され、さらには九州へ左遷。秀秋の決断の背景には何があったのか!? 戦国時代を終わらせた男の激動人生に迫る。

ゲスト

ゲスト 歴史家・作家
加来耕三
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(資料提供:高台寺)

戦国時代後期に生まれた小早川秀秋は、関が原の戦いのキャスティングボートを握る大活躍を見せる。東軍に寝返ることで戦国の乱世を終わらせ、太平の世を導いたまさにその男こそ小早川秀秋だった。しかし、そこに至るまでの道のりには過酷で激動の人生があった。未来の天下人として秀吉の寵愛を受けるも、実子・秀頼の誕生と、秀次事件により、突如転落してしまう。朝鮮出兵で活躍を見せるも、それが裏目にでて秀吉からの厳しい叱責が。何もかもうまくいかない秀秋の人生だったが、1600年の関が原の戦いでは、賢く強かな戦術を見せ、東軍の家康、西軍の三成を焦らし、翻弄するほどの存在感を見せる。東軍に寝返った秀秋、その真相に迫る。

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未来の天下人

本能寺の変が起きた1582年、小早川秀秋が誕生する。秀吉の正室おねの甥だった秀秋は、3歳のとき、子供のいなかった2人の養子となり、溺愛される。朝廷での礼儀作法など英才教育を施された秀秋は、その利発さと器量の大きさを見込まれ、8歳にして10万石を与えられ、11歳で従三位権中納言に任じられるなど、着実に天下人として歩みを進めていた。

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秀次事件

しかし、秀秋14歳のとき、秀吉に実子・秀頼が誕生。すると秀秋は小早川家へ養子に出されてしまう。さらに関白・秀次が切腹に追いやられる秀次事件など、秀吉による「養子の整理」が始まり、秀秋は戦々恐々。とうとう、領地没収されてしまう。未来の天下人どころか、罪人にされ、突如として転落人生を余儀なくされてしまう。

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慶長の役

1592年に天下統一を成し遂げた秀吉は、戦いの矛先を朝鮮・明へと向けていた。世に言う文禄・慶長の役である。その後、16歳となっていた秀秋に秀吉から「14万の兵の総大将」を任じられる。名誉挽回のチャンスだと奮い立ち、秀秋は違い鎌の刺繍を縫い込んだ真っ赤な陣羽織を新調し、猛将・智将たちとともに海を渡る。しかし、待っていたのは泥沼のような試練だった。極寒の中、食糧不足に見舞われ、さらにウルサン城で加藤清正が朝鮮軍に包囲されてしまう。秀秋は自ら敵陣に突っ込み、見事加藤を助け出す事に成功するも、帰国した秀秋を待っていたのは秀吉からの厳しい叱責。領地も半分に減らされてしまう。

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関が原前夜

失意に暮れる秀秋に、そっと近寄ってくる一人の男がいた。それは徳川家康。秀吉の死後、家康は自らの権力を駆使して秀秋の領地をもとに戻したのだ。思いがけない救いの手に、秀秋は深い恩義を感じる。実はこの動きの裏には、天下人を狙う家康の野望があった。
豊臣政権は武断派と文治派に分裂し、正室おねと側室茶々との間にも確執が生まれ、不安定な政情にあった。そんな中、家康は武断派と次々縁組を行い、勢力拡大を狙う。この家康の動きに石田三成が怒りの声を上げ、挙兵宣言。国を東西に分かつ一大決戦が徐々に近づいていた。家康に恩義を感じる一方、西軍に属する小早川家の一員である立場にいた秀秋の心は揺れ動く。

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(資料提供:関ケ原町歴史民俗資料館)

天下分け目の戦い

1600年9月14日、関が原の戦い前日、東西の軍勢が集まりつつあった。鶴翼の陣を敷く三成、猛将を前線に置き、自らも野戦に打って出る家康。そんな中で、秀秋は勝ち馬に乗るために強かに生き抜くことを決意する。状況を見極めるため行ったのは、松尾山という絶好の要衝地に陣取ることであった。しかも東西3番目の兵力を持つ秀秋はここで、戦いの勝敗を握る存在へと自らを押し上げる。両軍から多大な恩賞をちらつかせられるも、秀秋はあくまで慎重に静観を決め込む。

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そして15日、合戦が開始された。しかし、秀秋は1時間、2時間、3時間経っても動く気配がない。そして開始から4時間後の午後0時、とうとう秀秋は決断する。それは東軍への寝返りであった。秀秋の動きに、西軍にいた4人の武将も裏切り、大谷吉嗣隊へと襲い掛かる。そしてわずか半日で戦いは終わった。秀秋の決断こそが、乱世を終わらせ、260年に渡る太平の世を導いたのだ。

六平のひとり言

「日本一の裏切者」などと不名誉な修飾語をつけられてしまったけれど、彼の行動がなければ、戦国の世は終わっていなかった。そして、彼の生い立ち、幼少からの人生を知って、その心の葛藤、苦しみに心底共感した。信頼してやまなかった秀吉に、「裏切られた」という思いは、ずっと彼の中にあったのだと思う。もっと長く生きていれば、名君になっていたかもしれないし、少なくとも、「裏切者」などと言われることはなかったに違いない。
歴史というのは、時に、かくも残酷なものかと思った今回でした。