#43 2015年2月27日(金)放送 学問のすゝめ 福澤諭吉

福澤諭吉
資料提供:福沢記念館

今回の列伝は信念の教育者・福澤諭吉。私学校の先駆け慶応義塾を創設、天は人の上に人を造らず・・で有名な「学問のすすめ」で学問の意義を説き、明治の人心を啓蒙した。その根幹には幼少時代に体験した門閥制度に対する怒りがあった。近代教育の祖として、生涯在野を貫いた福澤の生涯に迫る!

ゲスト

ゲスト 作家
童門冬二

今回の歴史列伝は、1万円札でお馴染みの福澤諭吉。 “天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず”のフレーズで知られる「学問のすゝめ」を書き、 慶應義塾大学を起こした日本近代教育の“祖”とも言われる人物。 明治から昭和にかけて活躍する多くの知識人を生み出した福澤諭吉。信念の教育者の壮絶な人生に迫る。

門閥制度は親の敵

九州の中津藩の下級武士の子として育った福澤諭吉。父は地元で有名な漢学者でもあったが、身分制度のため才能を生かすことができず、無念の死を遂げた。福澤諭吉にとって、門閥制度は親の敵であった。 生来の負けず嫌いから漢学などを猛勉強し、地元では秀才として知られるようになった。

華麗なる転身

攘夷運動にまい進していた渋沢、しかし、計画はとん挫、身の危険が及ぼうとしていた中、ある人物が救いの手を差し伸べる。一橋徳川家で後の将軍・慶喜の用人をしていた平岡円四郎という人物だった。平岡は渋沢に一橋家に仕官しないかという話を持ちかける。渋沢は慶喜にこんな具申をして一橋家に仕えることになる。“徳川家を再興するには一度幕府をつぶすしかない”幕府を支える一橋家に対し、倒幕の先頭に立てといったのだ。

農民から武士となった渋沢は、一橋家でその実力を発揮していく。そして、領内の財政改革と富国強兵を成し遂げ、いよいよ一橋家を中心とした新たな体制作りにまい進しようとしてその時、更なる転機が訪れる。1866年、慶喜が幕府の第15代将軍に任命されたのだ。26歳の渋沢は農民から倒幕の志士、そして武士に、さらに幕臣へと思わぬ転身を遂げていた。

蘭学との出会い

19歳の時、黒船来航が起こると、危機感を抱いた中津藩は藩士を長崎に送り、蘭学や砲術を学ばせる。 その中に秀才と謳われた諭吉もいた。
その後、諭吉はさらなる蘭学の勉強のため大阪にあった「適塾」へ。そこで生涯の師となる蘭学医・緒方洪庵と出会う。自分と同じように下級武士から天下の蘭学医になった洪庵に憧れ、諭吉は猛勉強を行い、塾頭にまで登り詰める。その噂が中津藩に届くと、藩は諭吉を江戸の中津藩邸に送り、藩士に蘭学を教えるように命じた。学ぶことによって福澤諭吉は異例の出世を果たした。

アメリカ体験

帰国後、渋沢は慶喜が謹慎蟄居していた静岡藩に向かう。そこで、慶喜への恩に報いるため、静岡藩の財政立て直しに取り掛かる。フランスで学んだ“合本主義”を実践し、商法会所という組織を発足し、藩に大きな儲けをもたらす。その評判を聞きつけた明治新政府は渋沢を新政府の財務官に任命する。29歳の渋沢、次なる転身は幕臣から、新政府の役人だった。

独占との戦い

当時開港した横浜で英語の重要性を知った諭吉は、独学で英語を学ぶ。すると幕府の使節団に運良く加わることができ、26歳の時、渡米を果たす。アメリカの国の大きさや豊かさに驚いた諭吉。 中でも最も驚いたのは、初代大統領、ジョージ・ワシントンの子孫についてアメリカ国民の関心が薄いことだった。アメリカには門閥制度がなく、その時代に実力のある人物が国の指導者となることに諭吉は衝撃を受けた

攘夷と謹慎

アメリカ体験のあとヨーロッパの遣欧使節にも加わることができた諭吉は、西洋で知ったことをまとめた「西洋事情」を発表。鎖国が解け、世界を知りたがっていた国民に受け入れられた。 しかし時代は幕末。倒幕と攘夷の嵐が吹き荒れる中、諭吉は開国論者と名指しされ、攘夷派から命を狙われる日々が続く。また二度目のアメリカ訪問の際、船上で「江戸幕府は潰さなくてはならない」と言ってしまったことが幕府の役人に知られ、諭吉は謹慎を命ぜられた。

誕生「学問のすゝめ」

福澤諭吉が謹慎中に大政奉還が起こった。江戸時代は終わり新政府が誕生した。この新しい時代こそ、日本一の学び舎が必要だと思った諭吉は、知人から借金などをして今の東京・港区に私塾を開校する。その時の年号を取って「慶應義塾」を名付けられた学校には士族など多くの塾生が集まった。諭吉は授業料制度を作り、この私塾を軌道に乗せる。その時、諭吉が最も力を入れて説いたのが「独立自尊」だった。

知識を付け、一人一人が独立すれば、その家が独立する。家が独立すれば地域が独立する。地域が独立すればやがて一国が独立するという考え。一人一人の独立によって優れた国が生まれると説いた。そして廃藩置県が行われ、士族も農民も自由になると、諭吉は「学問のすゝめ」を発表。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」で始める文中には、本来平等であるはずの人間だが、実際は知力の差や、貧富の差があると書いてある。その差を無くすためには学問が必要であり、学問によって真の自由を手に入れられると説いた。身分制度から解放された多くの人がこの書に衝撃を受け、学問のすゝめは明治の大ベストセラーとなる。そして福澤諭吉の教えが、国民一人一人の学びの力を生み、日本という国の礎を築いたのだった。