#42 2015年2月20日(金)放送 日本資本主義の父 渋沢栄一

渋沢栄一

今回の列伝は渋沢栄一。日本に銀行と株式会社をもたらし、設立した会社は500以上。現在にいたる基幹産業のほとんどにかかわった、日本資本主義の父。しかし、農家の長男として生まれ、代官の悪政に憤り、尊王攘夷、倒幕に目覚め、御三卿一橋家に仕え、何と幕臣へと流転の前半生。大蔵省から在野に下り、民間活力を推進し、日本の近代化を作り上げた。その波乱に満ちた人生に迫る!

ゲスト

ゲスト 評論家・上智大学名誉教授
渡部昇一
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(資料所蔵:渋沢史料館)

今回の列伝は、日本資本主義の父・実業家の渋沢栄一。1873年、渋沢は日本初の銀行・第一国立銀行の設立に関わる。それは、日本の近代経済の転換となる出来事だった。その後、渋沢は銀行と株式会社という資本主義の要となるシステムの普及に努め、関わった会社の数はなんと500社以上にのぼる。明治という新たな社会で“民力”をどう育むか、激動の時代を生き抜いた渋沢の波乱の人生に迫る。

“代官の言葉”

渋沢栄一は1840年、埼玉県深谷市血洗島で農家の長男として生まれる。藍の葉の買い付けと加工で年一万両を売り上げる裕福な農家で育ち、幼い頃からは、父から漢籍の手ほどきを受けていた。教育のかいあり、わずか13歳で商才を発揮していたが、16歳の時、人生を変える出来事が起きる。地方の代官に呼び出され、父の代理で出頭していた渋沢は代官から御用金に督促を受ける。払うべき必要のない金、その理由を代官に聞くと、説明を受けるどころか徹底的に叱責を受ける。この一件に怒りを覚えた渋沢は、幕府の政治の腐敗をただそうと、尊王攘夷の志士に身を投じることになる。

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(資料提供:渋沢敦雄氏 / 深谷市教育委員会)
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(資料提供:深谷市教育委員会)
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(資料提供:渋沢敦雄氏 / 深谷市教育委員会)

華麗なる転身

攘夷運動にまい進していた渋沢、しかし、計画はとん挫、身の危険が及ぼうとしていた中、ある人物が救いの手を差し伸べる。一橋徳川家で後の将軍・慶喜の用人をしていた平岡円四郎という人物だった。平岡は渋沢に一橋家に仕官しないかという話を持ちかける。渋沢は慶喜にこんな具申をして一橋家に仕えることになる。“徳川家を再興するには一度幕府をつぶすしかない”幕府を支える一橋家に対し、倒幕の先頭に立てといったのだ。

農民から武士となった渋沢は、一橋家でその実力を発揮していく。そして、領内の財政改革と富国強兵を成し遂げ、いよいよ一橋家を中心とした新たな体制作りにまい進しようとしてその時、更なる転機が訪れる。1866年、慶喜が幕府の第15代将軍に任命されたのだ。26歳の渋沢は農民から倒幕の志士、そして武士に、さらに幕臣へと思わぬ転身を遂げていた。

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(資料所蔵:渋沢史料館)

合本主義

将軍慶喜に仕える幕臣となった渋沢に、またしても人生の転機が訪れる。パリで開かれる万国博覧会の幕府使節として将軍慶喜の弟・昭武に随行するよう命じられたのだ。1867年、渋沢はフランスへと旅立つ。フランスへ向かう途中、船で植民地となったアジア各地を巡りながら、渋沢が最も衝撃を受けたのは、スエズ運河の開削工事だった。国家規模をはるかに超えた大事業をどうなしうるのか?その謎は近代ヨーロッパの経済を成り立たせているあるシステムにあった。それが、銀行のシステムだった。銀行が個人から資金を集めて、それをまとめて貸し出すことで、新しい会社の事業の資金とする。そこから得られる利益からさらなる大規模な事業への出資が可能になり、その利益が人々に還元される。それをフランスで学んだ渋沢は、その仕組みを“合本主義”と名付けた。そんな中、1867年、将軍徳川慶喜が大政奉還を断行、徳川の世が終わりをつげた。

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(資料提供:渋沢敦雄氏 / 深谷市教育委員会)

帰国後、渋沢は慶喜が謹慎蟄居していた静岡藩に向かう。そこで、慶喜への恩に報いるため、静岡藩の財政立て直しに取り掛かる。フランスで学んだ“合本主義”を実践し、商法会所という組織を発足し、藩に大きな儲けをもたらす。その評判を聞きつけた明治新政府は渋沢を新政府の財務官に任命する。29歳の渋沢、次なる転身は幕臣から、新政府の役人だった。

独占との戦い

新政府の役人となった渋沢は念願であった銀行の設立にまい進していた。そんな中、最初に銀行設立に名乗りを上げたのは、新政府設立の資金を一手に担っていた御用商人・三井組だった。三井組は内々に新政府の許可を得て、着々と銀行設立の準備を進めていた。しかし、渋沢は三井の銀行設立にある疑念を持っていた。それは富の独占であった。そこで、渋沢は他の御用商人や個人から出資を募る。そして、1873年、日本初の株式会社による銀行・第一国立銀行家が設立される。渋沢はこの銀行設立後、役人の職を辞し、民間人として銀行の総監役に就任する。33歳、最後の転身をした渋沢は“民力に基づく社会を作りたい”そんな思いに満ちていた。

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(資料所蔵:渋沢史料館)
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(資料所蔵:渋沢史料館)
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(資料提供:日本銀行金融研究所)

銀行の本分

第一国立銀行は開業当初、2つの役割を担っていた。一つは現在の一般的な銀行がやっているように、多くの人々の資金を集めてそれを投資しその利益を還元するという役割。もう一つが現在の日本銀行がやっているように銀行券、つまりお札を発行するという役割である。産業の育成を助け、円という新通貨を流通させる役割を担って開業した第一国立銀行。しかし、開業してわずか2年。銀行は崩壊の危機に見舞われる。それは金貨の流出。銀行の資金である金貨が流出し続け、まもなく、空になってしまうというのだ。落とし穴は渋沢たちが作った銀行条例にあった。実は、銀行条例には“銀行が発行する紙幣はいつでも同じ価値の金と交換することを約束する”という一項がある。まだ、新政府による社会が安定しない中、人々は国のお墨付きの紙幣よりも「金」を持っているほうが安心だと、「金」と紙幣を交換してくれる銀行に殺到したのだった。

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第一国立銀行の破たんは明治新政府の経済も破たんも意味していた。何とか、金との交換以外の方法で新貨幣に信用を持たせ、流通させることを考えた。そんな中で、渋沢にあるアイデアがひらめいた。それは士族の力だった。政府が金禄公債という債券で士族に払っていた年金、これを使い金の代わりに日本全国にいる士族たちに銀行を作らせ、各地で紙幣を発行すれば、新貨幣が流通し、信用が高まるのではないか、そう考えたのだ。
1876年、渋沢の熱意に政府が動かされ、銀行条例が改正される。すると、日本全国に、銀行の設立ブームが巻き起こる。各地域の士族たちがなんと153行もの銀行を設立したのである。これらの銀行が、全国に新貨幣を流通させ、地方経済を活性化させるのだ。76歳で実業界を引退するまで、第一国立銀行の頭取を務めた渋沢栄一。渋沢は行員たちに常にこう語っていたという。「銀行は産業を起こすのを助けなければいけません。それが銀行の本分なのです」と。