#37 2015年1月16日(金)放送 伝説の剛速球 沢村栄治

沢村栄治

今回の列伝は、伝説の剛速球投手「沢村栄治」。17歳の時に米国のホームラン王ベーブ・ルースから三振を奪い、日本プロ野球創立時から活躍、3度のノーヒット・ノーランを達成した。しかし、日中戦争が勃発。球界のスターも激戦の地に送られ負傷、帰国後にはかつての剛速球を投げることできない体になっていた。3度の応召で剛速球から技巧派への転向を余儀なくされ、最後には戦力外通告を受ける。悲劇の名投手の苦難の人生に迫る。

ゲスト

ゲスト スポーツジャーナリスト
二宮清純

今回の列伝は、不滅の名投手、沢村栄治。日本プロ野球黎明期にベーブ・ルースから三振を奪い、3度のノーヒット・ノーランを達成した伝説の投手である。しかし輝かしい成績とは裏腹に度重なる出征により身体が蝕まれていく。ボロボロになりながら、フォームを変えマウンドに立ち続けた沢村栄治の波乱の人生に迫る。

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甲子園

明治時代、アメリカから伝わった野球に日本中が熱狂。相撲と並ぶ一大娯楽となった。沢村栄治は1917年(大正6年)に七人兄弟の長男として生まれた。貧しかった実家は八百屋を営んでいたため、幼い頃からリアカーを引き、父を手伝っていた。そんな沢村の唯一の楽しみが野球だった。13歳になった沢村は京都商業学校へ進学。「わしの力で甲子園に行くんや!」生来の負けず嫌いな性格で弱小の新参チームだった京都商業野球部を初の甲子園選抜出場へと導いた。
甲子園選抜大会では完封試合を成し遂げ、その存在は「中等学校野球界ナンバーワンピッチャー」として全国に知れ渡ることとなる。そんな沢村に全日本代表チームへの誘いがきた。アメリカからメジャーリーガーを呼び対決するという。沢村は悩んだ末、学校を中退して全日本代表チームのメンバーに加わった。

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日米野球での対決

1934年(昭和9年)対戦相手のメジャーリーガーが来日した。世界一のホームラン王ベーブ・ルースをはじめ、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックス・・・まさに、「地上最強軍」と言えるメンバーだった。迎え打つ日本選抜チームは日本野球界の蒼々たるメンバー。その中に最年少メンバーとして沢村が迎えられた。遂に日米野球の幕が開く。しかし、アメリカチームは、いきなり力の差を見せつけ、全日本を圧倒。第5戦に登板したピッチャー沢村栄治。周囲の期待を一身に背負った沢村。しかし・・・次々と打たれ、12安打、ホームラン3本を浴びせられ、10対0の惨敗。初めて味わう屈辱だった。メジャーリーグの猛攻は続き、全日本は8連敗。

第10戦。静岡県草薙球場で行われたこの試合は、後に語り継がれる伝説となる。アメリカの先発はホワイトヒル、日本は沢村栄治、2度目の登板。一回表、日本の攻撃は、ホワイトヒルの投球に押さえられ、あっという間に終わる。「今日も惨敗か…」観客席は半ばあきらめムード。しかし沢村はメジャーリーガーから次々と三振を打ち取り、なんとベーブ・ルースをも三振に打ち取ったのである。草薙球場が2万人の大歓声に沸いた。
その後日本選抜チームから設立された東京ジャイアンツを皮切りに、日本プロ野球が発足した。沢村はジャイアンツの投手として日本プロ野球史上初のノーヒット・ノーランを達成し、リーグ戦優勝に貢献。MVPも獲得するなど日本一の投手としての名声を得るまでになった。

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戦争の足音

しかし、1937年(昭和12年)に日中戦争勃発。沢村のもとへ召集令状が届いた。過酷な軍隊生活が始まる。沢村は上官の命令で手榴弾を投げさせられた。その様子は新聞でも報じられ、手榴弾を60m投げる鉄腕と紹介された。皮肉にも、球界スターの戦地での活躍は、国にとって格好の宣伝材料として使われることとなる。そして沢村は、中国大陸の前線に送られることとなる。武漢攻略の大激戦だ。激しい銃弾が飛び交う中、左手に走った激痛。敵の弾丸が突き抜けていた。熾烈を極める戦いは続き、気づけば部隊の3分の2が死んでいた。

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奇跡の生還

そして、1940年(昭和15年)・・・沢村は生き延び、日本に帰還。2年半ぶりに復帰登板を果たす。エースの復活を大歓声が迎えた。しかし、沢村のかつての豪速球は鳴りを潜めていた。重い機関銃を担ぎ、手榴弾を投げ続けた2年3か月の軍隊生活は、沢村から豪速球という一番の武器を奪ってしまったのだ。新聞や雑誌には、速球無き沢村に対する厳しい評価が並ぶ。もう昔の自分には戻れない。それでも野球をやりたい・・・
沢村はフォームをオーバースローからサイドスローへ変更し、今まで投げたことのないカーブを覚え、技巧派投手への変更を余儀なくされた。そして執念でマウンドに立った沢村が3度目のノーヒット・ノーランを達成。満身創痍の中で果たした記録であった。

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再びの戦地

1941年(昭和16年)。真珠湾攻撃の火蓋が切られ、日本はついに太平洋戦争に突入。翌年、沢村のもとに、2度目の召集令状が届く。送られたのは、フィリピン・ルソン島。再び訪れた戦場での生活は、想像を絶する長く苦しいものだった。もう、日本には帰れないかもしれない。不安の度にある戦友との約束を思い出した。1度目の出兵の際、戦地で偶然再会した、大阪タイガースのキャッチャー・小川年安。思わぬ再会で、野球の話に花が咲いた。「日本に戻ったら、ぜひまた野球をやりましょう。」そう言って笑った小川が、再び日本に戻ることはなかった。「生きて帰って、野球をする」それだけが沢村の支えだった。

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1年3か月後。再び生きて帰国を果たし、再度の球界復帰を果たした沢村。しかし、投げるたび、全身に激痛が走る。既にその肉体からは、選手生命の全てが失われていた。沢村はサイドスローから、アンダースローへ再びフォームを変えた。しかし、この年のリーグ成績、0勝3敗、防御率10.64。もはやプロとして通用することはなかった。球団は沢村に戦力外通告を言い渡す。更に沢村へ3度目の召集令状がやってきた。1944年(昭和19年)、沢村を乗せ戦地へ向かう船が台湾沖で撃沈。27年の生涯に幕を閉じた。

終戦後の1947年(昭和22年)、黎明期のプロ野球に貢献した沢村に敬意を払い、「沢村栄治賞」が設立された。これは、その年の優れた投手1人だけに送られる特別賞。第1回受賞者、別所毅彦をはじめ、松坂大輔、ダルビッシュ有、田中将大など名ピッチャー達に送られてきた。
野球に一生を捧げた天才投手・沢村英治の熱き情熱は、この賞とともに、今も野球を愛する人々の心の中に受け継がれていく。

六平のひとり言

スター性と抜きんでた才能と、
野球への愛と野球選手としてのすべてを持っていた人なのに、
戦争に3度も行くことになるなんて、
あまりにも不運で、悲しすぎるし悔しすぎる。
彼のプレーや監督としての姿を見てみたかったと心から思います。