#32 2014年11月21日(金)放送 大衆ジャーナリズムの祖 黒岩涙香

黒岩涙香

今回の列伝は大衆ジャーナリズムの元祖「黒岩涙香」。明治の新聞黎明期に涙香が創刊した「萬朝報」は時の政治家、財界人などの”下半身スキャンダル”を徹底的に扱い、部数を拡大する。さらに、『あゝ無情』など翻訳小説を連載し、大衆に新聞を普及させた。権力と闘い続けた波乱の人生に迫る。

ゲスト

ゲスト 評論家
佐高 信

今回の列伝は大衆ジャーナリズムの祖、黒岩涙香。明治時代、ある新聞が一世を風靡した。その名は萬朝報。現在ではほとんど知られていないこの新聞は当時、大手新聞社を抑えて東京一の売り上げを誇っていた。この萬朝報を創刊した人物こそ黒岩涙香であった。涙香は大衆の立場から、権力者たちの不正を痛烈に批判。政治家たちの愛人スキャンダルを紙面で取り上げ、震え上がらせた。そんな涙香がもう一つ、紙面で力を注いだのが、涙香自身が翻訳した小説「あヽ無情」の連載であった。そこに込められた涙香の大衆への思いとは・・・。

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仇三倍

1862年、黒岩涙香は土佐の国に生まれる。涙香が生まれた黒岩家の先祖黒岩越前は戦国期、土佐に長宗我部元親に攻め入られ、落城した主君とともに自害する。その屈辱感が生み出した黒岩家の家訓ともいえる「仇三倍」という言葉が伝わっている。自分が頭を一つ打たれたならば、三つ打ち返さねばならぬという教えである。幼き頃から仇三倍の教えを叩き込まれた涙香には、先祖黒岩越前から受け継ぐ反骨の熱い血が流れていた。

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ジャーナリスト黒岩涙香の誕生

19歳になった涙香は上京し、ジャーナリストを志すようになる。明治が始まって間もない当時、日本のジャーナリズムが幕を開いた頃だった。しかし、政府は新聞紙条例を制定して、言論の弾圧にかかる。そんな中、涙香は海外の新聞のような不偏不党の自由な報道に憧れるようになる。やがて、自由党の機関誌「絵入自由新聞」で記事を書くようになった涙香は、北海道開拓使長官の黒田清隆の汚職事件、開拓使官有物払下げ事件を徹底批判した記事を書くも、「官吏侮辱罪」として逮捕されてしまう。獄中の涙香の内には激しい怒りが込みあげ、権力に対する涙香の反骨魂に火をつけることとなる。

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ノルマントン号事件

明治19年、24歳の涙香は野党系の新聞である「絵入自由新聞」で主筆となっていた。その年の10月、紀州沖でイギリスの汽船が座礁し沈没するという事件が起きる。外国人の乗組員は救命ボートで脱出し、日本人の乗客25名が全員死亡した。いわゆる「ノルマントン号事件」である。裁判では船長だけに禁錮3か月の刑が言い渡されるという結果に終わる。怒りに震えた涙香は絵入自由新聞の紙面で、裁判が不公正であることを訴え、さらにイギリスとの外交関係悪化を恐れて弱腰外交に留まった井上馨を批判する。しかし、翌日、絵入自由新聞は警視庁から発行停止の命令を受けてしまう。涙香は、報道が権力につぶされてしまう悔しさを味わう。

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萬朝報創刊

1892年、涙香はついに自らの新聞を立ち上げる。新聞の名は「萬朝報(よろずちょうほう)」。目指したのは政党や企業と癒着しない、涙香が理想とする不偏不党の新聞だった。一に簡単、二に明瞭、三に痛快をモットーに幅広く受け入れられる大衆のための新聞を目指した。
記事を分かりやすく書かれた萬朝報の記事は人々に受け入れられ、発刊するや次々と購読者を増やしていった。中でも目玉記事は、政治家や実業家など甘い汁を吸う権力者たちの愛人スキャンダルを次々と暴き出した「蓄妾(ちくしょう)の実例」。涙香の記事は、時の権力者を震え上がらせた。萬朝報は発行部数を次々に伸ばし、大手新聞を抜き去っていく。ついには社員数100名を超える大所帯となる。

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翻訳小説「あヽ無情」

もう一つ、涙香が力を入れたものがある。それは自身が訳した翻訳小説「あヽ無情」の連載だった。原作はビクトル・ユゴーの名作「レ・ミゼラブル」。涙香はこれを日本人が読みやすいように、原作の言葉を踏襲しながらも自身の言葉で書きかえていった。ややこしいカタカナの登場人物名は全て漢字の日本人名に書き改めた。大衆が読みやすい話のテンポを作るために、冗長な部分は思い切ってカットすることもあった。涙香は翻訳しながら、まるで何かに取りつかれたかのように登場人物とともに笑い、怒り、そして時には泣いたという。「レ・ミゼラブル」は直訳すると「哀れな人」。しかし、涙香は主人公の思いをタイトルに込めた。理不尽な権力に対する、どうすることも出来ない怒り…それこそ涙香の傑作「あゝ無情」だった。