#28 2014年10月24日(金)放送 江戸の農村改革 二宮金次郎

二宮金次郎
(写真提供:報徳博物館)

今回の列伝は江戸後期の農村改革を成功させた「二宮金次郎」。幼くして両親が亡くなり、ひたすら働くことにより取り戻した農地。その後、節約を説いて、小田原藩家老服部家の財政再建、荒れ果てた農村の復興と財政改革へと乗り出す。しかし、立ちはだかる人の心の壁。「報徳仕法」と呼ばれる改革を生みだし、日本一銅像の数が多い男の、苦難な人生に迫る。

ゲスト

ゲスト 経済アナリスト
森永卓郎
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今回の列伝は、二宮金次郎。
薪を背負って本を読んでいた少年は、いったい何を成し遂げたのか?
時は江戸時代後期、相次ぐ天変地異により飢饉が起こり、全国で多数の餓死者が出ていた。農民たちは一揆や打ちこわしという武力手段に出るが、あえなく幕府に鎮圧される。そんな世に現れたのが、不屈の農民・二宮金次郎。生涯をかけ、誰も成しえなかった無血の農村改革をやってのけた。一介の農民から幕臣にまで上りつめた革命的リーダー・二宮金次郎の、壮絶な生き様に迫る!

生家再興

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川の氾濫に備え、岸に松苗を植える金次郎少年

1787年(天明7年)、小田原北部の栢(か)山(やま)村で農家の長男として生まれた金次郎。二宮家は2町の田畑を持つ豪農だったが、金次郎4歳の時、一夜にして全てを失ってしまう。台風により酒匂川が氾濫、田畑のほとんどが土砂に埋もれてしまったのだ。父は借金を重ね、働き詰めになった。幼い金次郎も父を助けようと必死になり、近所で子守をしたり、山から取った焚き木を小田原の町で売り歩いて家計の足しにした。そんな金次郎の楽しみが、本を読むことだった。学問好きだった父にならい、僅かな時間を見つけては儒教の本を読みふけっていた。

懸命に働き続けた一家だったが、金次郎13歳のとき、無理がたたり父は帰らぬ人となる。2年後、後を追うように母も病死。田畑も家も売り払われ、金次郎と弟たちは散り散りに親戚の家に預けられた。金次郎はその日から、生家を再興させることを目標に生きた。藩士の家での給金労働に明け暮れ、空いた時間には町で薪を売って金を溜め、田を買い戻す。そして手に入れた田んぼは小作に出し、自分は誰のものでもない荒れ地を耕す。新たに開墾した田畑には年貢がかからず、全てが収入となったのだ。地道にそれを繰り返し、8年。23歳の金次郎は、二宮家が失った土地の大部分を取り戻した。

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節約した使用人には報奨金が与えられた

武家の立て直し

村の大地主となっていた29歳のとき、金次郎は小田原藩家老・服部十郎兵衛に呼び出される。服部家の財政を立て直して欲しいという頼みだった。小田原の名家である服部家だったが、贅沢三昧を続けた結果、借金は1000両にも膨れ上がっていた。そこで十郎兵衛は、かつて服部家に奉公に来ていた金次郎の能力を見込み、頼み込んだのだ。十郎兵衛の必死さに折れ、金次郎は条件付きで引き受ける。「5年頂きたい。その間、一切の口出しは無用!」
金次郎が行ったのは、微に入り細を穿つ徹底的な倹約。飯を炊く釜の底のススを削り取らせ、火の通りを良くして薪を節約させる。食事は飯と汁のみ。衣服は簡素な木綿。さらに、定めた予算よりも節約した使用人には浮いた金を渡す「褒賞金制度」を用いて、やる気を出させた。
約束の5年後。服部家の1000両の借財は完済、加えて300両の蓄えも生まれていた。農民が武家の財政を立て直すという前代未聞の事業を成し遂げた金次郎の名は、小田原中に知れ渡ることとなった。

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生き地獄の村へ

その仕事ぶりを聞いた小田原藩主・大久保忠真によって、金次郎の人生は思わぬ方向へ動き出す。命じられたのは、桜町領(現栃木県真岡市)の復興。小田原藩領の桜町領は、度重なる飢饉から立ち直れず、困窮を極めていた。領民たちの暮らしも、荒廃しきっていた。田畑を放り出して昼間から酒をあおり、ばくちにふける者たちの姿もあった。金次郎は村々をくまなく歩いて現状を調査し、さらに100年前の記録までさかのぼって桜町の経済状況を調べ上げた。その結果、桜町の田畑の生産量に対して、あまりにも年貢が高すぎるという結論を出す。無理な年貢が、領民たちの働く意欲を失わせているのだ。そして、藩主・忠真に「今後10年に限り、年貢をいまの2000俵から、半分の1005俵で我慢して頂きたい」と提案する。農民である金次郎が藩主に年貢の引き下げを求めるという異例の行動だったが、説得力に打たれた忠真は、その要求を認めた。
10年の復興計画を開始した金次郎。毎朝4時から村村を回り、農民たちを指導する。そして陣屋に農民たちを集め、皆の投票で特に仕事に励んでいる者を決め、鍬や鎌などを褒美として与えた。農民たちの心は変わり始めたように見えたが、長くは続かなかった。金次郎の改革に不満を抱く者たちの工作もあり、次第に桜町の人びとは気力をなくしていく。そして、改革開始から6年が経ったある日、金次郎は忽然と姿を消した—

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(写真提供:小田原市尊徳記念館)

「報徳仕法」完成

金次郎が向かったのは、桜町から遥か離れた成田山新勝寺。ひとり断食を行い、なぜ改革が進まないのか、問うていた。一方、金次郎が消えた桜町では、変化が起きる。悪化するばかりの状況に焦った農民たちが、小田原藩に「金次郎の行方を探して欲しい」と訴えたのだ。断食を始めて、21日目。金次郎の元に、大勢の桜町の農民たちが迎えに現れる。その日のうちに歩いて戻った金次郎を、桜町の人びとは総出で迎え入れた。
再びの改革に乗り出した金次郎は、新たな策を打ち出した。「報徳金」。皆で金を出し合い、必要な者に無利子で貸し出す基金だった。もし返済できなければ仲間の10人が返すことになる、連帯責任を取った。借金のために田畑を手放していた者が、この金によって再び自分の土地を持てるようになる。徳をもって徳に報いる「報徳金」によって、桜町全体の生産性が上がっていった。
改革開始から10年後。納められた年貢は、1894俵。金次郎が設定した年貢額、1005俵の倍近くになった。そして、900俵の蓄えも生まれていた。
金次郎の改革手法は「報徳仕法」と呼ばれ、貧困にあえぐ全国の農村の再生モデルとなる。その後、金次郎は日本各地へ渡り、弟子たちとともに復興させた地域は生涯で600を超える。そして老中・水野忠邦から幕臣に取り立てられるという異例の出世も遂げた。金次郎は、弟子たちにこんな言葉を残している。「私の願いは 人々の心の田の荒廃を耕すことだ」

六平のひとり言

銅像は知ってるけど、600もの町や村の財政を立て直した
「農村改革の請負人」とは全く知らなかった。
「金次郎さんすみません!」という思いだよ。
ビジョンがあり、人の心をつかむ具体的な方法を思いつく。
二宮金次郎に、今、経済大臣になってもらいたい!
蘇ってきて欲しい!