#27 2014年10月17日(金)放送 日本近代医学の父 北里柴三郎

北里柴三郎

今回の列伝は日本近代医学の父・北里柴三郎。官費留学生としてドイツに留学、血清療法を発見し第1回ノーベル賞候補になるなど世界的な細菌学者となる。しかし、凱旋帰国した北里に用意された研究の場はなかった。閉鎖的な日本の医学界、東京帝国大学との確執。北里は苦難の中、伝染病の研究を続ける。終始一貫、信念を貫いた波乱の人生に迫る。

ゲスト

ゲスト 作家
山崎光夫
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2014年、世界を震撼させたエボラ出血熱の大流行。その最前線では、今もなお、被害の拡大を防ぐ戦いが続いている。これら伝染病への対策がとれるのは、病を起こす原因、エボラウィルスが判明しているからこそ。だが、その病原菌の存在さえ知られていなかった時代に、この見えざる敵と闘った男がいた。
北里柴三郎。数々の病原菌を発見し、その治療法を確立。世界の医学史に、日本人として初めてその名を刻む。細菌学を突き詰めた果てに築いたのは、日本初の民間医療研究所だった。そこに、いかなる理念を込めたのか…。

“伝染”の恐怖

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黒船来航によって鎖国が解かれた、嘉永5年。現在の熊本、阿蘇山の麓にある寒村で、北里柴三郎は生まれた。母から武士の血筋を受け継いだ柴三郎の夢は、国を背負って立つ人物になること。そんな腕白に育った少年時代、ある悲劇が訪れる。弟が流行り病に罹り、死んでしまったのだ。あっけなく命を奪われた弟の不運を柴三郎は嘆く。病の原因など誰も分からない頃、「運が悪い」病人は、さらに迫害の対象にまでなっていた。そんな時代に、柴三郎は地元の官立学校に進学。そこで、当時日本に入ってきたばかりの顕微鏡で、動物の組織細胞を覗いた柴三郎は衝撃を受ける。
「我々の体は、こんな緻密なもので構成されているのか!」
病を引き起こす原因が、この肉眼では見えない世界にあるのだと知った柴三郎は、明治7年、東京医学校、のちの東京帝国大学医学部に進学。細菌学を学ぶ医学者として、身を投じることになった。

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研究者への道

明治19年。32歳になった柴三郎は、最先端の医学立国・ドイツにいた。国費留学生として、ベルリン大学の研究室に加わっていたのだ。師事したのは、世界的な細菌学の権威、ローベルト・コッホ。柴三郎はコッホから、研究者としての信条、「細心の注意力」と「忍耐」を叩きこまれる。コッホの教えに従った柴三郎は、昼夜を問わない実験漬けの日々を送り、ついに破傷風菌の純粋培養と血清療法という、当時、世界で誰も達成できなかった偉業を成し遂げる。この医学史に残る快挙で、柴三郎の名は、一躍世界に知れ渡り、第一回ノーベル医学賞・生理学賞にノミネートされることになる。

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(写真提供:北里研究所 北里柴三郎記念室)

孤立無援

明治25年、世界的な功績をひっさげ、凱旋帰国を果たした北里柴三郎。だが、その経験を活かせる場が日本にはなかった。富国強兵路線を突き進む明治国家は、研究所に予算をかけるつもりなどない。さらに、母校の帝国大学も、柴三郎を教授として迎えようとはしなかった。そこには理由がある。当時、原因不明の病であった「脚気」が、「細菌」によって起こると主張した帝国大学教授の緒方正規に対し、柴三郎は検証を行い、誤迷も甚だしいと、痛烈に批判した。これに、師弟の道を解せざる者、情けを忘れたと、帝国大側から一斉に批判を受けてしまったのだ。「私情を抑え、真実を述べたまで。」信念を貫く柴三郎は孤立無援の状態になる。だが、そんな行き場のない柴三郎に、手を差し伸べてくれる人物が現れる。福沢諭吉。福沢は柴三郎に、国家に頼らない独立機関の設立を勧め、伝染病の民間研究所を設立する土地を無償で提供してくれた。だが、喜びもつかの間、思わぬ問題が持ち上がる。「伝染病が持ちこまれる」と不安視した近隣住民から、反対運動を受けてしまうのだ…。

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(写真提供:北里研究所 北里柴三郎記念室)

そこにある、危機

明治27年5月、清国広東地方において、致死率90%という最悪の伝染病、ペストが発生。日本と交易船が往来する都市での伝染病発生という事態に、政府は、柴三郎を中心とする調査隊を、香港に向かわせる。そこには、病院の廊下まで患者があふれて放置される、凄惨な光景が広がっていた。ペスト菌を特定する為、早速遺体の解剖に入る柴三郎達。だが、調査団のスタッフ3名が感染、1人が死亡するという過酷な環境が襲いかかる。
5日目、見たことも無い細菌を柴三郎は発見、慎重に培養し、動物実験を行った結果、ペスト症状が、はっきりと認められた。
「これだ!この菌で・・・間違いない!」
それは、1500年にも渡り、人類を脅かし続けた、病原菌発見の瞬間。柴三郎は再び、人類を救う偉業を、成し遂げた。その結果、明治32年、日本にペストが初上陸した際も、迅速な対応によって、僅か2か月後には終息に成功。柴三郎の努力によって、大流行は防がれたのだ。

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大新たなる出発

明治32年、柴三郎の伝染病研究所は、全国の衛生事業を管理する内務省と協力し、万全の体制を整えていたのだ。だが、大正3年、激震が走る。国の仕分けによって、伝染病研究所が文部省の管轄になり、東京帝国大学の下部組織になるという発表が突如報じられたのだ。文部省の管轄に入ると、研究が主体となってしまう。だが、伝染病との戦いにおいては、研究に籠るだけでは、本来の使命を全うできない。柴三郎は悩んだ末、所長を辞任する決断をする。
大正3年11月、私立北里研究所、設立。それは、細菌研究からワクチン開発、それを投与する病院まで全てが完備された日本初の私立研究所。柴三郎が理想とする新天地だった。「国家に頼らず、国家に報いる」
その信念と功績をたたえ、人々は男をこう呼んだ。「日本の近代医学の父」と…。

六平のひとり言

まさに、日本の近代医学はこの人から始まった。医学の父どころか、「生みの親」だね。
そして、北里という人は、よほどふところの大きい人だったんだと思う。
でなければ、辞職する北里といっしょに、所員全員が辞めるなってこと、考えられない。
科学者としては冷徹に批判し、帝国大学派閥から目の敵にされてしまうけど、
一方で、福沢諭吉の恩を一生忘れないような、義理人情の人だったんだと思う。