#24 2014年9月26日(金)放送 帝都復興計画 後藤新平

後藤新平

1923年、マグニチュード7.9の関東大震災が起こる。帝都・東京の多くの建物が崩壊。さらにその後に起こった火災で、全体の40パーセント以上を焼失。犠牲者は10万人を超え、壊滅的な被害を受けた。その復興を任されたのは、後藤新平。直前まで東京市長を務めていた新平は、帝都復興院の総裁となり、道路の拡張や橋の建設などを行い、東京を作り替えていく。そしてたった7年で見事に東京を復活させることに成功した。新平はいかにして復興を成し遂げたのか?
多くの人々を救った後藤新平の壮絶な人生に迫る。

ゲスト

ゲスト 歴史家・作家
加来耕三
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人間は生理学が大事

岩手県奥州市の武士の家系に生まれたた新平。ガキ大将だった新平の夢は日本を動かすこと。しかし明治維新により士族の身分を失った新平は医師の道を歩む。20歳の時、西南戦争を経験。そこで伝染病のコレラにかかって死んでいく兵士を目の当たりにし、行政が中心となって予防することが大切だと悟る。その後、医師として板垣退助の治療に当った新平。板垣にこう告げた。 「人間は生理学が基礎です。これを外しては駄目です。」
後藤に対して板垣は、君は医者よりも役人が向いていると伝え、その言葉の通り、その後、新平は行政官としての道を歩む。

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医者の作った街

官僚となった新平は1898年、台湾の開発を任される。当時、日本の植民地であった台湾は、インフラも整っておらず伝染病が蔓延。さらに抗日ゲリラの抵抗も激しかった。
そこで新平は、無理に日本流を押し付けるのではなく、台湾ならではの改革に乗り出す。 まず台湾各地に足を運び、まだ日本でも行なわれていない国勢調査を行う。その後、広い道路を作り、上下水道のインフラも整備。衛生面を改善していく。さらに抗日ゲリラと直接交渉。和解に成功する。
結果、わずか9年で台湾は日本を超えるほどの近代化に成功。その新平は新たな植民地・満州に向かい、満州鉄道総裁として都市開発に係わる。やがて都市開発の父と呼ばれるようになった。

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帝都・東京 大改造計画

1920年、台湾・満州での業績が買われ、東京市長となった後藤新平。しかし東京は問題山積みの都市だった。江戸時代の城下町そのままで、入り組んだ細い路地に長屋が続く。建物のほとんどは木造で大火の危険性もあった。そこで新平は東京改造計画を立てる。道路の拡張工事、上下水道の整備、公園の設置、葬儀場の建設に至るまで、全てを作り替えるというもの。予算は当時の国家予算の半分以上、8億円もかかった。議員たちから反対意見が続出。後藤の大風呂敷と非難された。結局、計画は頓挫。 後藤新平は東京市長を辞任するのだった。

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関東大震災〜そして復興

1923年、様々な問題を抱えた都市・東京を関東大震災が襲う。マグニチュード7.9の揺れに多くの建物が崩壊。さらにその後に起こった火災で、全体の40パーセント以上を焼失。犠牲者は10万人を超え、壊滅的な被害を受けた。時の内閣総理大臣は後藤新平に帝都の再建を託す。街づくりのエキスパートである新平をおいて、他にはいなかった。新平は「復興」という言葉をかがげ、東京を作り直そうとする。一晩で作った復興案の予算は30億円。皇居を中心に何重にも環状道路を広げ、多くの公園を設置する計画だった。広い道路は市民の避難を助け、公園は避難所になる。東京を防災に強い都市にしようとした。しかし多くの議員たちは理解を示さず、元に戻すよう主張した。つまり復興より、復旧が大事だと訴える。また東京の地主たちも、道路拡張のために土地を渡せないと猛反発した。
四面楚歌となった新平は、理想の4分の1の予算、7億2千万円の復興予算を断腸の思いで受け入れた。 新平は台湾や満州で共に都市開発をした部下たちを集め、少ない予算で復興させる秘策を打ち出す。 それが「区画整理」。土地の所有者一人一人から少しずつ無償で土地を提供してもらい、整理して寄せることで空きスペースを作る方法。この方法により、少ない予算で土地を確保することができた。そして昭和通りなど、現代にも残る広い道路を次々と作っていく。鋼鉄の橋やコンクリートの小学校、災害に強い建物を次々と作り、東京は近代的で美しい街へと作り変わった。

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帝都復興記念式典

1930年、震災からたった7年で東京は復興を成し遂げた。帝都復興記念式典が行われ、 100万の市民が参加。生まれ変わった東京を盛大に祝った。しかし、そこに新平の姿はなかった。 復興に忙殺された新平は、その前年、脳溢血で倒れ、帰らぬ人となった。 新平が命をかけて築きあげた東京の街並みは、今も変わらず現代に残っている。