#08 2014年5月30日(金)放送 「つぶやきの句」漂泊の俳人 種田山頭火

種田山頭火

今回の列伝は漂泊の俳人・種田山頭火。誰の心にも存在する弱さを正直に句にした山頭火は事業に失敗し、酒に溺れ40歳過ぎて禅の修行に励むが、それもまた続かない。ついに行乞の旅にでる。その旅の中で、つぶやくように句を詠み始めた。

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仲畑貴志
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カッコ悪くてだらしなく、寂しがりやで泣き虫で、それでいて己の信念を貫き通す・・・。今も中高年に愛され続けている、種田山頭火。
昭和の初期、雲水姿で全国を漂泊しながら、その心模様を句に託した。
男を漂泊の旅へと駆り立てたのは何だったのか?
漂泊の俳人・種田山頭火の悲しくも素晴らしき遍路の物語。

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不幸の連鎖

種田山頭火は、山口県佐波郡で大地主の長男として生まれた。行く行くは家督を継ぎ、一家の長となるはずだった。しかし9歳のとき、母親が井戸に身を投げて自殺してしまったのだ。その時、山頭火は井戸から冷たい身体になって引きあげられた母の姿を目の当たりにしてしまう。母の死後、山頭火は忌まわしい記憶から逃れようとするかのように勉学に打ち込んだ。14歳の時には、地元の私立学校を首席で卒業。俳句に出会ったのはこの頃だった。
その後、東京の学校に進学するも神経衰弱により中退を余儀なくされる。さらには父が相場取引に失敗。窮地に陥った山頭火は、種田家の再興を試みて、心機一転酒造業を始める。同じ時期、結婚。山頭火は仕事に勤しむかたわら俳句作りにも情熱を注いだ。投稿していたのは新しく出版された自由律俳句の句誌「層雲」。主宰の荻原井泉水が唱えたのは、季語や字数にとらわれず感情を自由に詠む、新しい俳句の世界だった。山頭火は新進気鋭の俳人として注目されるようになる。ようやく人生に光が差し込みはじめたかのように思えた。しかし種田酒造が倒産。一家は離散することになってしまった・・・。山頭火は夜逃げ同然で熊本に向かうも、仕事がうまくいかず、離婚。更に追い打ちをかけるように弟が自殺する。山頭火は、底知れぬ闇の中に向かって、人生の坂を転がり落ちていく。

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あれだけ熱中していた俳句を詠むこともなく、酒におぼれる日々。ある日、熊本市内で泥酔し、路面電車の前で仁王立ちして、電車を止めてしまった。偶然居合わせた知り合いによって助けられ、熊本市内の禅寺・報恩寺(ほうおんじ)に連れていかれることになる。それが山頭火の転機となった。以後、寺に住み込み、禅の修行に励むことになる。翌年には世俗を捨て出家し、禅僧を目指した。やがて人里離れた小さな寺の番人となった山頭火は、托鉢で日々の糧を得て過ごす、孤独な一人暮らしが始まった。

「私も二十年間彷徨(ほうこう)して、私自身の道、
そして最初で最後の道に入ったように思います。」

この時、種田山頭火、すでに44歳。ここが「最初で最後の道」と自分に誓っていた。

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行乙

寺の仕事についてわずか1年。突然その職を投げ出し、旅に出ることにした。帰るあてもない漂泊の日々が始まる。托鉢をしながら日々を生きる、“行乞”(ぎょうこつ)と言われる旅。山頭火は旅の始まりに当たってこう記している。
「解くすべもない惑いを背負う」
これからどう生きていけばいいのか。ただただ歩くことで、山頭火は生きる意味を見出そうとしていた。凍え死にを覚悟した真冬の雪。焼けつくような真夏の炎天下。山頭火は、ひたすら歩き続けた。そして旅の中で、かつて夢中になっていた俳句を再び詠むようになる。それはまるで、誰に語るのでもない心のつぶやきのようだった。

「分け入っても分け入っても青い山」
「まっすぐな道でさみしい」
「生き残ったからだ掻いている」

一人であろうとさみしかろうと、とにもかくにも自分は生きている。「野垂れ死に」を覚悟した「迷路」は行乞によって、山頭火はようやく「生きる道」を見出そうとしていた。

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最後のあがき

1937年日中戦争勃発。戦争が長期化の様相を呈すると、国家国民が一丸となって戦争を戦い抜く国家総動員法が施行される。托鉢で巡る町や村では、若者を戦地へと送るのぼりが立ち、軍靴(ぐんか)の響きが聞こえるようになった。山頭火55歳。托鉢での糧もままならなくなっていた。そして山頭火はもう一度、仕事を始めようとするも、わずか5日目には職場を放棄。世俗の中では生きられないことを悟った山頭火。彼の生活は再び元に戻る。泥酔し、無銭飲食を繰り返す日々。酔いが醒めては反省、その繰り返し。結局、山頭火に残されたのは行乞を続け、そして句を作り続けること、それだけだった。

「歩かない日はさみしい、飲まない日はさみしい、
作らない日はさみしい、ひとりでいることは
さみしいけれど、ひとりで歩き、ひとりで飲み、
ひとりで作ってゐることはさみしくない」

13年に及ぶ行乞の旅。山頭火57歳。その気力、体力は失われつつあった…

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ころり往生

昭和14年、山頭火は、四国・松山で「一草庵(いっそうあん)」という居を構える。終の棲家となるこの庵で山頭火はひとつの目標を立てる。それは「ころり往生」。そして、人生の仕舞い支度をするかのように最後の句集の編纂にとりかかりる。膨大な句を吟味し、推敲を重ね、ついに、703の俳句を収録した句集をまとめあげる。

昭和15年春。種田山頭火は一代句集「草木塔」を刊行。句集の扉には、こんな言葉が記されていた。
「若こうして死をいそぎたまへる 母上の霊前に本書を供えまつる」

山頭火は自分の生きた証しを、生涯胸の奥底に閉じ込めてきた、亡き母に捧げたのだ。山頭火はこの句集「草木搭」を風呂敷に包んで九州や中国地方の俳句仲間に配り歩く旅へ出かけた。それは惜別の情を伝え、人生を振り返る行脚だった。

六平のひとり言

ほんとに好きになりました。コロリ往生!僕も目標です。
もちろん、不幸な生い立ちもあった。やってもやってもできない自分への
憤りもあったと思うけど、彼が生み出した句は全然暗くない。
ひょうひょうとしてすがすがしくて、よんでるこちらが明るくなる。
きっと根っこのところでは、幸せを感じることのできる人だったと思う。