THEナンバー2

毎週木曜よる10時オンエア

綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。

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真田幸村

ゲスト: 井沢元彦

戦国時代から400年以上が経った今、最も愛され続けている武将がいます。男の名は  真田幸村。家康を震撼させた男であり、その生き様は現代に至るまでゲームやアニメでも多く取り上げられています。今回は、豊臣家のナンバー2、真田幸村の人生を描きます。

真田一族の名が全国へ知れ渡る

幸村の父・昌幸は、武田信玄に仕え、武田24将に数えられる武将です。信玄なきあと徳川家に仕えていましたが、家康は北条氏との同盟を強化するために真田家の領地を勝手に譲ってしまいます。怒った昌幸は、元服前の息子・幸村を上杉家へ差し出し、同盟を組みます。幼い幸村は真田家のために使命を負ったのです。この真田家の動きを知った家康は、上田城へ軍勢を差し向けます。徳川軍およそ7000、対する真田軍2000。数的に不利な状況の中、真田家は「千鳥掛け」という戦法により徳川を敗走させます。これが「神川の合戦」です。この活躍により、真田家の名が一気に全国へ知れ渡ることになったのです。


豊臣秀吉の家臣となるが・・・

徳川を退けた真田家は、上杉家の人質になっていた幸村を取り戻し、秀吉に接近します。北条征伐の際には父と共に参戦すると、その活躍が秀吉から認められます。しかし、1598年秀吉がこの世を去ると戦国の世が動き始めます。家康が動き、関ヶ原の戦が勃発。家康を倒そうと策略する石田三成と上杉家の直江兼続。この時、幸村と父兄は家康の命で上杉征伐に向かっていました。そして小山の手前、犬伏にいた幸村らのもとに三成から家康討伐の協力要請がもたらされます。家康か三成か?親子はここで別々の道を歩むことになります。これが「犬伏の別れ」です。三成側についた幸村。徳川秀忠率いる38、000と真田軍わずか3、000の戦いが始まります。ここで「真田戦法」と呼ばれる戦略が力を発揮します。時間稼ぎをし、敵をおびき寄せ、ひきつけると一気に攻め込む。そして堰き止めておいた神川の堰を切り、秀忠軍を押し流す・・・。「幸村の謀略おそるべし」関ヶ原の戦に勝利したものの、家康は幸村の存在に怯えることとなります。

最後の戦、大坂冬の陣、夏の陣

「大坂冬の陣」。秀頼側についた幸村と徳川方の雌雄を決する合戦がはじまります。家康の大軍を真田丸という砦で迎え撃つという作戦。敵を挑発し、誘い込む。ここでも「真田戦法」が炸裂します。大打撃を受ける家康は信州三万石を与えると申し出、調略をもちかけますが、幸村はこれを断ります。領地を与えられることより、働き場を与えられたことこそありがたい・・。戦は和睦へと向かいます。敵が油断しているタイミングで家康と秀忠の首をはねることができる・・・。しかし、このアイディアは秀頼の母・淀君と参謀大野治長により却下されてしまいます。唯一のチャンスを逃した豊臣軍。やがて和睦は破られ、大坂夏の陣へと展開していきます。もはや敗戦は免れない状況。最後、幸村率いる真っ赤な一団が、家康のいる本陣へ突き進みます。この突破で深手を負った幸村は46歳でその生涯を終えることになります。
幸村の戦いぶりを認める言葉が残されています。大坂夏の陣から1か月後。薩摩島津家の者が幸村をこう評しています。

「真田(さなだ)日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)、古よりの物語にもこれなき由(よし)」

以後、現代に至るまでその勇士は語り継がれていくことになるのです。

 


「猿飛佐助」。
スタジオでは井沢さんと西村さんが私にむかって「わからないでしょう?」「聞いたことないでしょう?」とおっしゃっていましたが…
いえいえ!もちろん20代の私だって知っています!

その彼を筆頭にした「真田十勇士」、まったくの架空の集団だったのですね。
それだけの伝説的人物たちが登場してしまうほど、真田幸村が江戸の庶民に人気であり、かつ「日本一の兵」と呼ばれるほどの実力の持ち主であることを示しているということでしょう。

武将ブームが起こっている昨今、今回の放送でも「真田十勇士」をモチーフにしたゲームを紹介していました。

ことごとくムキムキ、そしてイケメンの十勇士たち…
おもわず私は苦笑してしまいましたが…
現代にもうけつがれる「真田幸村人気」の根強さを感じた次第です。