THEナンバー2

毎週月曜22時オンエア

綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。

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平清盛

ゲスト: 加来 耕三

祇園精舎の鐘の声・・・。今回のナンバー2は、平重盛。平清盛の長男です。
万里小路藤房、楠正成と並び「日本三忠臣」の一人とされていた重盛。
誰よりも国家を思い、平家一門を憂い、時代に裏切られた悲劇の賢人に迫ります。

親子で戦った保元の乱・平治の乱

清盛、重盛親子が共に戦った朝廷の後継者争い“保元の乱”(1156)。この戦いで清盛軍は、源為朝と対決。劣勢となり、清盛は撤退命令を出しますが、重盛はこの命令に従いませんでした。父に恥をかかせたくない一心から為朝に向かっていこうとしたのです。結果、後白河陣営の圧勝に終わりますが1159年“平治の乱”が勃発。今度は平家と源氏の全面対決となりました。後白河と二条天皇を誘拐した首謀者は保元の乱の功労者、源義朝でした。清盛は、降伏したかに見せかける作戦をとり、後白河と二条天皇を奪還。勢いにのった重盛は義朝の息子・源義平と激戦を繰り広げるなど活躍しました。

重盛 調整役になるが…

清盛が太政大臣に就任した任安2年(1167)、後白河との関係に変化が訪れます。平家一門の勢いが強くなったからです。このままでは自分が無力化されてしまうのではないかという不安を抱く後白河。貿易を拡大するなどで平家をより強くしていく清盛。そんな対立のなか、ある事件が起きます。「殿下乗合事件」です。重盛の次男、資(すけ)盛(もり)の鷹狩りに向かう車を摂政・藤原基房の車が路上で出会い、資盛の車を基房の家人車が壊してしまいます。これに怒った重盛は基房の護衛たちのマゲを切らせます。マゲを切らされることは最大の羞恥。このことで世間に強い反感を与えた重盛は権大納言を辞任するのでした。

忠義か親孝行か?重盛の苦悩

時代は後白河と清盛の間を確実に引き裂いていきます。そんななか重盛は後白河から、右近衞大将に任じられます(任安4年)。しかし、これは後白河の作戦だったのです。密かに平家打倒の陰謀を進めていた後白河は鹿の谷で謀議を行いますが、これが密告により清盛に知られてしまいます。怒った清盛は後白河を幽閉しようとします。間に挟まれた重盛は悩みます"法皇への忠義"か"父への孝行"か?結果、重盛は後白河の幽閉に反対します。これにより父、清盛からの信用を失った重盛。地位と力が急落していくなか、平家の内部抗争が勃発。清盛と後白河の間は緊迫していくのでした。

重盛の死・平家滅亡へ

治承3年(1179)、重盛は病に倒れます。後白河は直々に見舞いに訪れ、父・清盛は宋の名医を重盛のもとへ送ったと言われています。そんな両者の歩み寄りもむなしく、重盛は42歳でこの世を去ります。死後、重盛の所領を没収した後白河。清盛の怒りは頂点に達し後白河を幽閉。清盛の完全独裁体制には入った平家は福原遷都、東大寺の焼き討ちなどを行い全国から嫌われていきます。このことは、平家一門崩壊の序曲となっていくのです。平家滅亡の陰には重盛というキーパーソンの存在を忘れるわけにはいきません。


この時代は資料が少ないにもかかわらず 個人的なエピソードなどは
妙にディテールが細かく残っているのがのが面白いところです。
800年以上昔でも 人の感情って今と同じなんですよね。
なぜ調整役として優秀だった重盛が
「殿下乗合事件」で急にキレたような行動を
とってしまったのか?本質は武人だったということなのでしょうか?
革新的な父清盛と天狗とまで言われた後白河法皇の板ばさみになり
42歳で亡くなった重盛、悲運の人生です。