THEナンバー2

毎週月曜22時オンエア

綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。

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水野忠邦

ゲスト:加来 耕三


「悪魔外道」人々は彼をそう呼んだ…
今回の主人公は、江戸三代改革のひとつ「天保の改革」を行った、老中・水野忠邦。水野が行った経済を立て直す政策は、人々から批判を浴びました。だが、水野には日本を守るために見せたもうひとつの顔があったのです。

トントン拍子で出世!

水野忠邦、22歳の唐津藩主時代。彼は前代未聞の行動に出ました。なんと、浜松藩へ国替えを願い出たのです。表向きの石高はどちらも6万石と対等。ただ、実際の唐津藩の 石高は20万石を超えていたと言われています。なぜこのような行動に出たのか? それは、浜松城は江戸時代に城主となったほとんどの人が、幕閣へ入っているからだったのです。「出世城」とも呼ばれた浜松城。藩主になることで、水野は国を動かすまでの地位に登りつめていきます。 そこにはある思いがあったのです。


天保の改革

本丸老中になってから7年目。家斉の一派を粛清すると、水野は自らの政策を実行に移します。それが「天保の改革」です。その経済政策は徹底的な「倹約」。花火の規制、江戸市中に500軒あった寄席は15軒にまで減らし、歌舞伎の劇場は郊外に強制移転しました。その厳しさは、庶民から反感を買うことになります。絵師・歌川国芳は、浮世絵「土蜘蛛妖怪図」でこの改革を痛烈に批判。當(あたり)と書かれた提灯の妖怪は、禁止された「富くじ」を意味し、スイカの妖怪は贅沢だから食べてはいけないと言われた「初物」を指しています…。これらは奪われた庶民の楽しみを描いたもの、"化けて出ている”のです。やがて水野は 「悪魔外道」と呼ばれるようになってしまいます。ところが…。

本当に「悪魔外道」だったのか?水野忠邦、もうひとつの顔

「悪魔外道」と呼ばれた水野ですが、日本を守るための先見性も持っていました。1842年、アヘン戦争により清がイギリスに敗北します。まさに欧米列強のアジア進出。事態の深刻さを知っていた水野は、異国船の対応のため「薪水給与令」を発令。これは、近づいて来る異国船を砲撃し撃退するのではなく、燃料と食料を供給を行い穏便に帰らせるというものでした。さらに、水野は防衛のために海上砲台を台場に建設することを計画、これはペリー来航の15年前のことでした。それだけではありません、水野は印旛沼(現在の千葉県)の開発に乗り出します。2本の川を繋げ、印旛沼から江戸湾に船を通そうとしたのです。このことで、江戸湾の入り口を塞がれても、首都が孤立するようなことは避けられることになります…。ですが、「上知令」の失敗の責任をとり、老中を罷免されたことで、この開発も志なかばで終わってしまうのです。国を守るため、庶民を守るために行った政策は、ことごとく失敗。水野は失脚後こんな漢詩をのこしている。
「天下人民の窮之を救おうと老中になったが、人々は私が好き勝手やっていると噂しあった。しかし部外者に何がわかるだろう。今更ながら十年も老中を務めたことを後悔している」


「幕府で出世したい!」
19歳で唐津藩主になった忠邦は裕福な唐津藩からわざわざ出世城といわれる浜松への国替えを申し出ました。高い志というか…猛烈な出世欲ですよね!
念願かなって幕政に参加し「天保の改革」に着手したものの失敗。
あまりにも行き過ぎた質素倹約が庶民の反感を買いました。
一方で度重なる外国船の来訪に誰よりも危機感を抱き国防への備えを訴えていました。
忠邦のやろうとしてことは間違っていなかったと思うのですが...
若いころからエリート意識を持ち その理想が実現したのにうまくいかない。
国を動かすための素養は知識だけでは十分ではないと教えてくれます。