#89 2016年2月12日(金)放送 明治の女傑 広岡浅子

広岡浅子

今回の列伝は明治の大実業家・広岡浅子。幕末、三井家の令嬢として生まれた浅子がいかにして炭鉱経営から保険会社、女子大学の設立まで・・大実業家の道を歩むことになったのか。激動の時代を不屈の闘志で生き抜いた明治の女傑の”九転十起”人生。

ゲスト

ゲスト 作家
植松三十里

今回は、明治の女傑と言われた実業家、広岡浅子を取り上げる。
広岡浅子は炭鉱経営をはじめ、銀行や保険会社の事業で巨万の富を得て、女子大学の設立にも奔走した人物。京都の豪商 三井家のお嬢様として生まれた浅子が、何故、実業家としての道を歩み出したのか・・・?
浅子の結婚した相手は、とんでもないボンクラ亭主だった。仕事もせず、毎日、謡や茶の湯などの遊興三昧。そんな中、嫁ぎ先の家に莫大な不良債権がのしかかる。浅子が下した決断とは?その後、炭鉱経営を始めた浅子だったが、石炭価格の大暴落で、閉鎖の憂き目に!浅子は大胆な行動に打って出る。そして、一代で築いた巨万の富を如何にして活かすのか?浅子は、最も弱い人を救うために立ち上がった!
激動の時代を、不屈の闘志で生き抜いた女実業家、広岡浅子の波瀾万丈の人生を、三つの鍵で解き明かしていく。

一の鍵 「ぼんくら亭主」

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ペリー来航から遡ること4年前の嘉永2年、広岡浅子は、京都の豪商 三井家に生まれた。商家のお嬢様として大切に育てられた浅子だが、当の本人は始末に負えない、はねっかえり。子供の頃、あまりにも活発に動き回り、結った髪が乱れ、注意されたところ、ハサミで根元から切り取ってしまった。付け髷をつけ体裁を整えたものの、走り回って髷がコロコロと落ちたという。

幼少期を振り返り、浅子はこう書き残している。「その頃の女子の教育は、琴と三味線と習字くらいのものでした。(中略)私は随分お転婆でした。否、よほどお転婆でしたから、そういう稽古はみな嫌いでした。」そんな浅子に、思いも寄らぬ運命が待ち受けていた。14歳位になると、嫁入り修行をするようになった浅子。朝から晩まで琴や習字など、将来、商家の嫁として必要なたしなみを、有無を言わせず躾けられた。しかし、親の目を盗んでは、お転婆のし放題。丁稚相手に大好きな相撲をとっていたという。

そんな浅子が、じっとして正座する時があった。それは、兄弟を真似て、四書五経や論語を読んでいる時。こっそり書物を引っ張り出しては読んでいると両親から「女子に学問は不要」と、こっぴどく叱られた。しかし、勝ち気な浅子はこう思っていた。「女だって学べば習得出来る頭脳があるのだから、どうしても学びたい。」

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慶応元年、16歳となった浅子に、嫁入り話が持ち上がる。相手は、幼少の頃より決められていた許嫁で、大阪・加島屋の次男、8歳年上の広岡信五郎だった。加島屋は一、二を争う両替商。幕府の公用金の管理や、大名貸しと言われる諸藩への融資で財を築いていた。浅子には、安泰な生活が待っているはずだった。 ところが・・・。浅子の夫 信五郎は、仕事を番頭や手代に任せっきり。暇さえあれば、謡や茶の湯にうつつを抜かす、筋金入りのぼんくら亭主だったのだ。浅子の胸に、一抹の不安がよぎる。

折しも時代は、幕末から明治への大転換期。嫁ぐ前年には、京都で禁門の変が起こり、町中が焼け野原となっていた。浅子は、いざという時には、自分が店を仕切らねばと、商売に必要な知識を独学で学び始めた。
結婚から3年後、明治政府が誕生。予想だにしない大波乱が待ち受けていた。新政府は、政治資金として、大阪商人に対し300万両、現在の金額にして1500億円の献金を命じた。さらに、明治4年には金本位制が導入され、大阪で使われていた、銀による取引が廃止されてしまったのだ。大阪では、銀を金に替えてくれという、取り付け騒ぎが起こり、30軒以上の両替商が廃業に追い込まれてしまう。加島屋も資金繰りが行き詰まり、浅子は嫁入り道具など、実家から持ち込んだ財産を売り払い、窮地を凌いだ。

だが、さらに追い打ちをかけたのが、“廃藩置県”。藩の消滅により、天保年間より以前の債権は全てなかったものとする、という御触れが出された。加島屋の商いの柱は、諸藩への融資。当時、全国でおよそ300あった大名の、3分の1に融資を行っていた。加島屋の貸付金は総額900万両、現在の金額で4500億円にも達する。それが、永遠に返って来ないのだ。その一方で、運用のため預かっていた、莫大な公金の返済を求められた。加島屋は一夜にして、途方もない借金を抱える事になったのだ。“このままでは加島屋は潰れてしまう・・・。一体どうしたら良いのか・・・。私がどうにかしないと。” 浅子は覚悟を決め、実業界に身を乗り出す。20歳の時のことだった。

二の鍵 「九転中起」

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加島屋の立て直しは、浅子と夫の信五郎、そして信五郎の弟・正秋の3人に託された。浅子は、覚悟して加島屋の立て直しをかって出たものの、やれる事は、借金の赦免願いをひらすら書き、かけずり回る事だった。毎日、足が棒になるくらい大名屋敷を訪ね歩き、借金返済の猶予を懇願した。

浅子の努力で借金は徐々に減りつつあったものの、このままではじり貧、加島屋に未来はない。何か思い切った手を打つ必要があった。そこで浅子が目をつけたのは、明治政府が国策として進めていた、筑豊の炭鉱開発。丁度この頃、日本にも蒸気機関車が走り、その燃料として、石炭の需要が高くなっていたのだ。明治17年、浅子35歳の時、加島屋は石炭事業に参入する。

浅子が始めたのは、炭鉱から掘り出された石炭の代理販売事業。少ないリスクで富を得る、新たなビジネスモデルだった。筑豊・潤野炭鉱の独占販売権を得た浅子は、買い取った石炭を、上海や香港などへの海外輸出を目論んだ。しかし、浅子の思惑は大きく外れることとなる。炭鉱業に参入した翌年の明治18年末頃から、石炭供給が需要を上回り、価格が暴落。海外輸出が思うように伸びず、融資した資金も返ってこなくなってしまったのだ。浅子が満を持して設立した石炭会社は解散に追い込まれ、残されたのは、融資の抵当だった炭鉱のみとなってしまった。

この窮地を救ったのが、何と、ぼんくら亭主の信五郎だった。実は信五郎は、謡や茶の湯の仲間だった大阪の経済人たちと共同で資金を出し合い、尼崎に紡績会社を設立。この会社が軌道に乗り、加島屋は何とか持ち直すことが出来たのだ。そして、挽回のチャンスが巡ってくる。あの炭鉱業の失敗から11年。“損したままでは終われない・・・。” 当時、石炭は、価格の暴落から立ち直り、活況を呈するようになっていた。

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明治28年、浅子は単身、九州へと向かった。未だ開店休業状態だった炭鉱を何とか軌道に乗せるためだった。そこで浅子は、大胆な行動に打って出る。荒くれ男たちが牛耳る炭鉱現場に乗り込み、陣頭指揮を取り始めたのだ。当時の炭鉱は、“現場監督”と“納屋頭”と言われる、親方が取り仕切っていた。“山”のことを知らない女の命令など聞けるか、と、男たちは猛反発。しかし、浅子は意に介さず、男たちと同じ釜の飯を食べ、同じ屋根の下で寝起きを始めた。次第に、浅子の真剣に取り組む姿に男達は心を動かされ、親方や鉱夫たちの信頼を獲得していく。
そして、男達と寝食を共にすること2年。ついに、石炭の鉱脈を発見した。浅子には成功を支えた信念があった。「人が七転び八起きというのなら、自分は九回転んでも十回起き上がる人間になろう。」

三の鍵 「儲けを活かす」

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大阪市西区。今は生命保険会社がビルを構えるこの場所に、かつて浅子が暮らした大邸宅があった。炭鉱業、金融業、紡績業など一大コンツェルンとして莫大な富を築いた加島屋。その一方で日本は、明治28年に、日清戦争が終結。戦争には勝利したものの、日本軍の死者は、1万3千人を超えた。軍需景気に沸くその陰では、一家の大黒柱を失った女性や子供たちが、極貧の生活を強いられていた。

浅子は秘かに思っていた。“戦争に勝ったって、それが何なのだ。身を落とす女性や、孤児となった子供達が沢山いるではないか・・・。今こそ、これまで儲けた金を使う時だ。” 浅子は自分の財産を、社会のために注ぎ込んでいく。いつしか浅子の邸宅には、寄付を求める人たちが、ひっきりなしに訪れるようになっていた。一人一人の話に耳を傾け、共感し納得したものには、金を出すことを惜しまなかった。中には、裏口から恥ずかし気に訪ねてくる者もいたが、そんな人たちに向かって、浅子は、「玄関から入りなさい」、と一喝したという。

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社会のためにお金が必要なら、正々堂々と必要な理由を説明せよ、というのである。そのころのこと。浅子のもとに、一人の男が訪ねてくる。女子高等教育機関の設立を目指していた教育者、成瀬仁蔵だった。アメリカに留学経験のあった成瀬は、日本に女子のための教育機関が必要だと力説した。“資金さえあれば、必ずや夢を実現してみせる!力を貸して欲しい!” という成瀬。浅子は熱弁をふるう成瀬に共感を覚える。そして改めて思うのだった。“これからの女性は自立しなくてはいけない。誰かの妻という存在ではなく、自分が働き、金を生み出し、社会の中で一個人として存在しなければならないのだ。”

浅子は成瀬と意気投合し、1億円をポンと寄付。さらに、当時首相だった伊藤博文や大隈重信、井上馨など、次々と政財界の要人との面会を求め、自ら寄付集めに奔走する。その結果、集まった資金は30万円、現在の金額でおよそ60億円にも達した。大学を建てるための土地は、実家の三井家に掛け合い、東京・目白台の5500坪の別荘地を寄付させた。そして明治34年4月、東京・目白に、日本女子大学校が設立される。

そして浅子は、いよいよ宿願だった事業に乗り出した。それは、生命保険業。経済は豊かになったが、その一方で、日清戦争の遺族である未亡人や孤児たちが大量発生、社会問題となっていたのだ。さらに、当時、生命保険会社は各地で急増していたが、財政の基盤が脆弱で、また遺族の生活事情に合わせた商品も少なかった。浅子は、加入者本位で経営基盤の確かな会社を作るため、加島屋の資金を注ぎ込むと同時に、当時、大阪、東京、北海道にあった三つの保険会社の合併に向け、各社の説得に動き始める。しかし、それぞれの経営者は一国一城の主。浅子の言葉に、容易に首を縦にふることはなかった。それでも浅子は諦めなかった。“小異を捨てて大同につくことが大切ではないのか” と、断わられても断られても、粘り強い説得を続けた。

そして明治35年、浅子はついに、全国規模の保険会社設立にこぎつける。浅子は語る。「成功の秘訣は、その人に情熱があるかどうかです。」

六平の傑作

女豪傑!広岡浅子。
男社会を「金」で動かすってすごいよね。
建前やきれいごとじゃない、経済という本音の世界で
伸していった浅子。
お見それしました!