#82-83 2015年12月11日(金)放送 天下取りへの11日間 豊臣秀吉スペシャル

豊臣秀吉

今回の列伝は豊臣秀吉SP。秀吉が本能寺の変による信長の死を知ったのは備中高松攻めの真っ最中。そこから、光秀を討つまでに要した日数はわずか11日間。天下取りに向けて突き進んだ、奇跡の11日間に一体何があったのか?秀吉の野望は日本史を大きく変えた!

ゲスト

ゲスト 漫画家
黒鉄ヒロシ
ゲスト 歴史学者
本郷和人

一の鍵 「信長、未だ死せず」

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天正10年6月2日。本能寺の変が勃発。その知らせは、瞬く間に信長家臣達に伝えられ、各地に激震が走った。秀吉は、備中高松にて、中国地方を治める戦国大名毛利軍と交戦中。信長の死を知った秀吉は、衝撃を受ける。しかしその心中は、複雑だった。それは信長政権の原動力、「実力主義」がこの頃には、「一族重用」の傾向が明らかになっていたから。嫡男信忠や三男の信孝を優遇し、広大な領土を与え、総大将に任命。それに比べ、信長が好んで“激戦区”に送り込んでいたのが秀吉だった。

不満が日増しに募る中で聞いた、信長横死の知らせはその終焉を、意味するものだった。次の後継者こそが天下人となる…。秀吉はすぐに頭を切り替える。そして即決した。誰よりも早く光秀を討ち、天下を目指すべし!目の前の敵、毛利と停戦すべく和睦を結ぶと、秀吉は2万の兵をそろそろと後退させる。こうして、中国大返しの幕がついに開けた・・・。

二の鍵 「非武装化」

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進軍開始の初日。嵐のような大雨が吹き荒れていた。しかし行軍を止めることはできない。秀吉は、大雨の中、進軍を決行。但し、行軍する前、足軽たちに、一風変わった命令を下す。「具足を脱ぎ、槍を置け」戦闘能力は度外視。兵士達を脇差一本の軽装にさせ、高速移動のみに特化した軍隊に変化させたのだ。
秀吉はさらに確実な一手を用意していた。実は秀吉は毛利と和睦を結ぶ前後2日間の間に、馬による輸送部隊を先に動かし、補給物資を行く先々に、準備させていたのだ。こうして強行を開始して2日目の夜、秀吉軍の先頭が、姫路城に到着。秀吉の用意周到な戦略が、後に神がかりとまで言われた、中国大返しを可能にしたのだ。

三の鍵 「バラマキ」

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秀吉は、重要な拠点姫路城にたどり着き、充分な軍資金と物資を得て、光秀との決戦に大きな足掛かりを得た。しかし、目指す京までは、残りあと120㎞。翌日の朝にはすぐ、出発しなければならない。しかし、強行軍がたたり、兵士達は疲弊困憊の極み。そのことを告げれば、士気が低下は免れない・・・。そこで秀吉は、思い切った命令を下す。城内にあった金800枚、銀750貫、米8万5千石分を褒賞として、ビタ一文、米一粒残さず、将兵及び、兵士たち全員に気前良くバラ撒いたのだ。

その上で秀吉は、城内の将兵たちを前に、正義の戦いに勝てば、今以上の恩賞を約束。一世一代の大盤振る舞いに、将兵たちは湧いたという。翌6月9日の早朝、秀吉は姫路城を出陣、2日後に無事、兵庫の尼崎城に到着。備中高松から、わずか5日間で、ついに170㎞の行軍に成功した。川を渡れば、もうそこは大坂。光秀まで残り30km。決戦の舞台は、着実に近づいていた・・・。

四の鍵 「大義名分」

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本能寺の変から9日目、6月11日。秀吉は岡山から2万の兵を引き連れ、170kmを踏破し、兵庫尼崎に到着した。しかしこの尼崎にはある難関が立ちはだかっていた。尼崎には池田恒興(兵力5000)、中川清秀(2500)、高山右近(2000)という光秀配下の武将がいた。彼らが光秀に味方すれば秀吉の軍勢を上回る危険がある。そこで秀吉は懐柔工作として、秀吉は尼崎のお寺で髻を切るというパフォーマンスに打って出る。髪を下ろすことで信長の仇討ちを強調し、「義は吾にある」と自らの大義名分を宣言したのだ。
さらに秀吉は書状でも味方になるよう迫っていた。尼崎に着く前日に中川に出した書状には、自分の情報だけでなく柴田や敵である明智の情報まで全ての情報を開示し、情報を制する秀吉軍の優位性を示した。そして押しの一手に、秀吉は、大坂富田で信長の三男、織田信孝と織田家家臣の丹羽長秀を迎え入れる。秀吉は信長の遺児・信孝を旗印に担ぎ上げ、光秀討伐が正道であることを天下に知らしめたのである。こうして秀吉は諸将らの懐柔を着々と進めていく。

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一方光秀は6月2日に本能寺で信長を討ってから、ある危機感を抱いていた。それは当時大罪とされた「主殺し」の汚名。光秀は織田家筆頭家老の柴田勝家が攻め入ると予想していた。そこで京の朝廷に働きかけ、その権威を利用し、汚名を晴らそうとする。6月7日には朝廷から勅使が到着し、京の守護を申し付けるとのお墨付きを得る。今や「光秀を討つこと=朝廷を敵に回した」と見なされかねない。光秀は朝廷を盾に有力大名たちとの同盟を図る。その一人が丹後を治める細川藤孝。光秀の三女を嫁がせ親戚関係だった両家だが、必ずや味方すると思っていた細川は信長を弔うことを名目に頭を剃り出家、光秀の頼みを断っていた。
さらにもう一人、光秀の組下大名で長年厚い信頼関係にあった大勢力、大和の筒井順慶も光秀の誘いに何度も出兵と退却を繰り返し逡巡していた。6月10日に光秀は自ら出陣し筒井に合流を促すも態度を明らかにしない。次第に焦りが生じる中、光秀の元に想定外の報が届く。それが秀吉の大返しだった。急いで兵力を固めるも、6月12日の決戦前夜、光秀の元に細川・筒井は姿を見せず、兵力総勢1万6000、一方秀吉の元には4万の兵が集結した。

五の鍵 「天王山」

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6月12日、本能寺の変から10日目、圧倒的兵力を持って京へと行軍する秀吉。一方迎え撃つ光秀も智将ならではの秘策があった。それは決戦の舞台を山崎に定めるというもの。山崎は北の天王山、南の淀川に挟まれ隘路になっている。この地形を利用し、山崎の隘路の出口に、兵を一列に配し、並んでやってくる4万の大軍を次々と撃ち続ければ、少ない兵力でも互角に戦うことが出来ると考えたのだ。一方秀吉は天王山を抑えて隘路の出口で待ち構える光秀軍を脇から叩き、包囲網を崩さないと勝機はないと気が付く。決戦前夜、秀吉軍は天王山で光秀軍と前哨戦を繰り広げ、勝利を収め天王山を奪取する。

そして翌13日、秀吉は山崎に続く西国街道と、天王山の二方向から進軍する。天王山を抑えられた光秀は山の裾野に兵を多く布陣。その様子を天王山の本陣から一望していた秀吉は、手薄になっていた川付近から一気に迂回攻撃をかけ、光秀軍は脇から突かれて総崩れとなる。光秀が即席で本陣を構えた古墳からは秀吉軍の猛攻撃を物語る大量の鉄砲玉が出土。秀吉はわずか2時間で光秀との激戦を制したのである。

六平の傑作

本当にすごい武将がいたもんですね。
今まで、秀吉の本当のすごさをわかっていなかったことがよくわかった。
センス、知恵、人心掌握、ここ一番の勝負強さ
何をとっても光秀はかなわなかった。
中国大返し、感服です!