#81 2015年12月4日(金)放送 天下一の猛将 柴田勝家

柴田勝家

今回の列伝は戦国の猛将・柴田勝家。一度は主君信長に謀反を起こしながらも、織田家に忠誠を尽くし、その働きは鬼柴田と恐れられた。しかし、本能寺の変後の対応で、秀吉と明暗を分ける。なぜ、明智光秀を討たなかったのか?賤ヶ岳の戦いで敗れ、妻お市の方と自害するまでの、強直一本槍の人生を読み解く。

ゲスト

ゲスト 作家
伊東潤

数々の武将たちが勇躍した戦国の世にあって、伝説の猛将と伝えられるひとりの武将がいる。その男の名は「柴田勝家」。織田信長の家臣にして、猛将の名を轟かせた。天下統一を目指した主君・信長を助け、数々の激戦を勝ち抜いた勝家は、そのあまりの戦の強さから“鬼柴田”と恐れられた。しかし、勝家にとって信長は、かつては、仕えるべき主君ではなく、討つべき「敵」であった。1度は信長に逆らった勝家が、なぜ織田家髄一の家臣となりえたのか?そして、その勝家の前に立ちはだかったのは、同じく信長の家臣・羽柴秀吉だった。
戦国一の猛将、柴田勝家。生涯胸に抱き続けた、知られざる思いを解き明かす!

一の鍵 かかれ柴田

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柴田勝家が最初に仕えた主君は、信長の父・信秀であった。勝家は信秀の死後、信長の弟・信勝の家臣となり、新たな領主となった信長への反乱軍の大将として、戦に臨むことになる。その戦で信長は、大将にも関わらず自ら先頭を切る。その勇猛な姿に圧倒され、兄弟対決は兄・信長に軍配が上がる。死をもって処せられると覚悟した勝家だったが、弟の信勝を赦したばかりか、なんと勝家にも罰を与えなかった。勝家は、信長という男の器の大きさに惚れ込み、堅い忠誠を誓う。こうして勝家は、信長の家臣として名を連ねることになる。

しかし、一度謀反を起こした勝家は、合戦においても、遠ざけられた。戦場に行かなければ手柄はない。勝家は、戦とあれば駆けつけ常に先鋒を志願、最も危険な役目を引き受けた。ついたあだ名が「かかれ柴田」。信長に認めてもらうには、猛将にならざるを得なかったのだ。

信長の家臣となって10年後の1568年。足利義昭を奉じて上洛した信長から、勝家は将軍義昭のいる京の守りに抜擢され、信長の重臣の仲間入りを果す。その2年後、勝家は、信長の浅井朝倉攻めの拠点の一つとし南近江の長光寺城を任されていた。そこに、敵方の六角義賢(ろっかくよしかた)の大軍が押し寄せてきたのだ。敵は、城の最大の弱点を突く。水源を断ち、城内を水不足に陥らせたのだ。渇きで倒れる者が続出。しかし勝家は家臣たちに思う存分、水を飲ませ、そして、まだ水の入った大瓶をたたき割ってしまったのだ。
もう後はない。柴田軍は、決死の覚悟で六角勢に突撃、勝家は勝利を得たのだった。

二の鍵 誤算

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織田家臣団の中で「最も勇猛で果敢な武将」として名をはせるようになった柴田勝家。勝家の前に一人の有能な部下が現れる。人たらしの天才と言われた羽柴秀吉である。サルとあだ名された秀吉は、目端の利く有能な部下として重宝された。やがて戦に出るようになると、共に武功を挙げていく。その秀吉が、信長の信頼を得て、異例の出世を果し、織田家の家中でも、指折りの武将になりあがっていった。

1577年、その秀吉と勝家の間に、決定的な出来事が起こる。信長軍と上杉謙信が、加賀の国を巡って激突した、手取川の戦いである。勝家を主将とする北陸方面軍は、居城である越前を出陣。上杉軍のいる加賀へ向かった。敵は「軍神」と謳われた上杉謙信。丹羽長秀、滝川一益といった有力家臣が援軍として駆けつけ、その中には、家臣・羽柴秀吉の姿もあった。そこで秀吉は、勝家の指揮に真っ向から反発。無断で軍を引き揚げてしまったのだ。勝家は激怒。それが原因で、勝家は上杉軍に惨敗を喫してしまう。無断で戦場から帰るとは武将としてあるまじき行い。勿論秀吉は切腹に違いない。しかし信長の処分は「閉門」、謹慎されたのみだった。当時戦線離脱は重罪。この一件は、二人の間に大きな遺恨を残す事となった。

そして、天正10年6月2日、本能寺の変勃発。織田信長の重臣・明智光秀が謀反をおこし、主君である信長を自害に追い込んだのだ。その時勝家は、信長の北陸地方制圧の戦略に基づき越中で強敵・上杉景勝と戦っていた。勝家が「信長死す」の一報を受け取ったのは、上杉の魚津城を、今正に攻め落とした時であった。すぐに兵を引き上げ、光秀討伐に向かわなければならない。しかしここで想定外の事が起こる。信長の死を知った上杉軍が俄かに活気づき、再び攻勢に転じたのだ。勝家は、動くに動けなくなってしまった。その頃、備中高松城で毛利軍と戦っていた秀吉が、講和を結び、すぐに光秀討伐に向かっていたのだ。そして6月13日にあの秀吉が光秀を討ったとの知らせが届く。勝家がこれを知ったのは、京へと向かう道中の事であった。

三の鍵 北ノ庄

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本能寺の変から25日後。尾張の清洲城で織田家の重臣が集まり、信長亡き後の後継者を決める「清洲会議」が行われた。ここで勝家と秀吉が激しく激突することになる。信長の長男・信忠が本能寺で自害に追い込まれたため、跡継ぎの有力候補は、次男の信雄(のぶかつ)と三男の信孝だった。
勝家には、織田家を主導するのは自分であるという自負があった。主君の仇を討てなかった失態を、是が非でもこの会議で取り戻す必要があったのだ。勝家が推したのは三男・信孝。能力もあり、年齢も24歳と申し分なかった。

しかし、これに真っ向から反対した秀吉は、驚くべき案を出してきた。秀吉が跡継ぎに推したのは、なんとまだ三歳の三法師。武家の慣例では、当主が亡くなれば嫡男が継ぎ、それがいなければ嫡孫。次男や三男はその補佐役だと主張。これに丹羽長秀や池田恒興も賛同し、勝家の思惑はあっけなく打ち砕かれてしまった。

清洲会議後、秀吉は信長の葬儀を大々的に行い、自らが後継者であることを天下に知らしめた。織田家内での内乱を避けるため、慌てて秀吉との講和を結ぶ勝家。しかし秀吉は講和を無視し、柴田軍の領地への侵攻を始めた。勝家が、雪に閉ざされ動けないことを見越しての挙兵だった。年が明けようやく3月になって、勝家は残雪が残る北ノ庄を出陣した。こうして、勝家と秀吉は遂に激突することに。世にいう、賤ヶ岳の合戦である。それぞれが陣を張り、両軍のにらみ合いが続いた。しかし柴田軍として陣営を張っていた前田利家隊が、突如戦線を離脱。それをきっかけに、柴田軍は一気に総崩れ、大敗北となる。城を包囲された勝家は最後を悟る。せめて、妻のお市の方を救おうと城を出る事を勧めるが、お市は、ともに死ぬ事を選んだ。そして自分の腹を掻っさばき、五臓六腑をかき出してから介錯させるという、壮絶な切腹ののち果てた。それは鬼柴田の異名をとった、剛直一本槍の武将の最期だった。

六平の傑作

私がかつて演じた縁もあり、最も共感する武将です。
家臣思いで、妻思い。
秀吉にやられちゃったけど、最後まで自分の義を貫いた
気骨ある生き方に惚れ直しました。