#78 2015年11月13日(金)放送 江戸無血開城 勝海舟

勝海舟

今回の列伝は江戸無血開城の立役者・勝海舟。260年続いた徳川幕府の引き際を背負った男はいかにして、新政府軍の江戸総攻撃を止めさせたのか。西郷隆盛との会談までに、勝が仕掛けた入念な作戦とは? 激動の80日間に迫る!

ゲスト

ゲスト 評論家
佐高 信

今回の歴史列伝は、幕末の動乱期、滅びゆく徳川幕府を最後まで指揮した幕臣・勝海舟。
慶応4年(1868年)3月、勝は明治新政府の西郷隆盛と対峙し、「江戸無血開城」という歴史上稀に見る偉業を果たす。江戸の武力制圧を目論む新政府軍に対し、勝は圧倒的劣勢を跳ね除け、見事、江戸を戦火から守ったのだ。その功績によりつけられた異名は、“幕末最強の交渉人・ネゴシエーター”。しかし、その成功の裏には知られざる孤独と苦悩があった。大政奉還から江戸無血開城まで、わずか半年。45歳から46歳にかけて、酸いも甘いも知り尽くした勝海舟の人生におけるハイライトに焦点を絞って迫っていく。

一の鍵「四面楚歌」

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“みんな敵がいい。敵がいねえと、事が運ばないのサ”
慶応3年末、徳川慶喜が大政奉還をした後も、幕末の動乱は治まらなかった。権力維持を目論む徳川家と権力独占を狙う薩長は、戦火を交えて決着をつけなければ治まらない事態に陥っていたのだ。徳川方の勝海舟は「それは単なる私闘に過ぎない」という意見書を提出するが、「あまりにも弱腰」・「薩長の犬」と退けられて、一蹴されていた。徳川慶喜は、旧幕臣の意見に押されるように、京都で戦争に突入。「鳥羽伏見の戦い」と呼ばれる合戦は、わずか数日で慶喜の敵前逃亡という、徳川軍にとっては最悪のかたちで薩長軍の勝利に終わる。

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慶喜に呼び出された勝は、「薩長とのパイプがあるお前が矢面に立ち、うまく事を治めてくれ」という命を受ける。使命は徳川家存続。旧幕臣、約2万人の命運が勝一人の肩に託された。勝の心情は「西欧列強の脅威が迫る今、国内で争っている場合ではない。旧幕府と新政府の有能な人材を結集し、共和政治を樹立する。」それこそが、日本のとるべき道であり、徳川家を存続させる唯一の方法だと考えていた。

二の鍵「逆転の一手」

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“何でも大胆にかからねばならぬ・・・
むつかしかろうが、易かろうが”
勝の前に、新政府軍の最強の敵が立ちはだかる。慶喜討伐軍の参謀、薩摩藩の豪傑・西郷隆盛だ。西郷は、慶喜を切腹まで追い込み、徳川家を殲滅しなければ新政府による新しい政治は始まらないと考えていた。3月6日、新政府は江戸総攻撃の日を9日後の3月15日に決定する。何とか、交渉の糸口を見つけたい勝は、江戸で暴動を起こして処刑目前になったところを自宅に引き取った薩摩藩士の益満休之介を、旧幕臣の山岡鉄舟のお供につけ、何とか西郷隆盛との会談にこぎつける。しかし、会談から戻ってきた山岡に託された西郷による降伏条件は苛烈なものだった。(1)江戸城を即時明け渡す事 (2)武器・軍艦を即時引き渡す事 (3)慶喜を備前岡山に預けること 特に(3)の備前岡山藩預けは、すでに新政府の支配下にある場所であり、ほぼ「慶喜の切腹」を意味していた。到底受け入れられず、このままでは江戸で全面戦争だ。そんな交渉の中、勝は水面下で様々な手を打っていた。それが、まるで江戸の市民を人質に取るかのような「江戸焦土作戦」である。さらに本来は敵の薩長支援者であるイギリス公使の通訳、アーネスト・サトウと夜な夜な密会して、戦争を避けるための情報戦を繰り広げていた。イギリスにとって江戸が戦場になってしまうことは貿易上の大打撃であり、何としても避けたいことであることを勝は見越していたのだ。

三の鍵「誠と誠」

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“後世の歴史が狂といおうが、賊といおうが、
そんなことかまうものか。
処世の秘訣は“誠”の一字“
江戸総攻撃が翌日に迫った3月14日。勝は従者、1人連れて、江戸の薩摩藩邸に乗り込み、西郷との会談にのぞんだ。殺気が漲る中、少し遅れてやってくる西郷。勝は、まず長い口上で徳川慶喜の恭順の意思を説明するし、その身柄を備前岡山に渡すのではなく、生まれ故郷である水戸で謹慎することを了承してもらう。次に西郷が要求する。(1)江戸城・武器弾薬はすぐに引き渡すか?勝は答える「すぐに引き渡す」。続いて西郷 (2)では軍艦は? 勝は答える「軍艦は海軍との調整があるのですぐにという訳にはいかない」 西郷答える。「分かりもうした」 この答えに交渉の余地ありと見た勝は機を逃さない。結局、翌日の江戸総攻撃を中止にさせ、江戸城・武器弾薬の引き渡しに関しても猶予を勝ち取るのだ。実は、すでに薩長にはイギリス公使から「戦争をやめるべき」という強い抗議が来ていて、西郷はすでに強硬策を取れない状況になっていたのだ。勝の水面下での工作が効いたと言われている。

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勝・西郷会談からほぼ1か月後の4月11日。江戸無血開城。その最大の立役者であるはずの勝海舟は江戸城内にいなかった。ひたすら江戸の町を走り、治安維持に努めたという。
最後の最後まで奔走し続けた。
明治維新後、勝は行き場を失った旧幕臣たちの生活を救うため、農業に就かせたり新政府に売り込んだり尽力したという。

六平の傑作

勝海舟の度胸

江戸を火の海にする!という「火策」を西郷につきつけた勝の度胸と
一か八かの決断が、無血開城という偉業につながったんだと思う。
幕臣という立場を超えて、江戸っことして、江戸の人々を救いたい
という思いがあったからこそ、ぶつけることのできた究極の策だった。
恐れ入った!