#77 2015年10月30日(金)放送 南総里見八犬伝 曲亭馬琴

二宮忠八

今回の列伝は江戸の戯作者・曲亭馬琴。日本最初のファンタジー作家にして、28年かけて「南総里見八犬伝」全180話を書き上げた執念の男。武士を捨て、町人となり、さらには戯作で身を立てざるえないところまで落ちた波乱の人生。しかし、再び武士へ戻り、お家を再興することに生涯こだわった。

ゲスト

ゲスト 歴史研究家
河合敦

今回は、江戸時代後期の戯作者・曲亭馬琴を取り上げる。
馬琴の書いた「南総里見八犬伝」は、全180話、106冊、28年もの長きに亘って連載された。八犬伝は現在でも、歌舞伎はもとよりアニメや漫画にもなり、多くの人々の心を惹きつけている。しかしこの物語は、単なるヒーローが活躍する冒険活劇ではない。そこには、想像を越える馬琴の執念ともいうべき物語が隠されていた。
八犬士が持つ、「仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌」の八つの珠に託された、馬琴の苦渋の人生とは何なのか。また晩年、馬琴に襲いかかる不幸を支え、八犬伝終盤の代筆をした息子の嫁・路との壮絶なる創作の日々とは?日本の古典文学史上、最長にして最大の物語を生み出した、曲亭馬琴の知られざる執念の人生を解き明かす!

一の鍵「怨念」

関ヶ原の合戦から百数十年。戦のない時代に武士は職を失い、市中には浪人たちがあふれていた。滝沢家も例外ではなかった。馬琴の家は、曾祖父 興也が、旗本 松平家の家老という名家。ところが、その子・興吉(おきえ)が16歳で家督を継いだため、若さを理由に俸禄は激減、その跡を継いだ馬琴の父・興義は、勢力争いにより、何と小姓にまで格下げされてしまう。

そんな没落の一途を辿っていた滝沢家に、5人兄弟の末っ子として生まれたのが倉蔵、後の馬琴だった。父 興義は滝沢家を立て直すべく、兄たちや馬琴に厳しい躾を施す。四書五経を学ばせ、さらには俳句も教えた。ところが、安永4年、一家を悲劇が襲う。興義が突然倒れ、たらい一杯の血を吐き、なす術もなく息を引き取ったのだ。お家再興の、道半ばでの死。幼き馬琴の脳裏には、大量の血と、父の無念が刻みつけられた。その後、滝沢家は父の俸禄も滝沢家伝来の家も取り上げられ、一家は離散する。しかし滝沢の名だけは残さねばと、馬琴は9歳で家督を継ぐことになった。

幼い馬琴は、松平家当主の孫の世話係となるが、人間扱いされず、寝るのも廊下という屈辱的なものだった。しかも、仕えた幼君(ようくん)は、わがままで粗暴なこと、この上なかった。理由もなく、いじめられる日々。そして安永9年、10月。とうとう我慢出来なくなった13歳の馬琴は、松平家を飛び出した。家もなく職もなく、友人宅を泊まり歩き、さらには遊郭にも入り浸って、やけっぱち人生を歩んでいた馬琴。そんなある日、急報が届く。母が、度重なる苦労が元で病に倒れたのだ。馬琴は必死で駆けつけるが、間もなく息を引き取った。馬琴は母の前で自暴自棄になっていた自らの行為を心から悔いた。

そして母の死から8年後。26歳となった馬琴は、意外な場所にいた。馬琴は、履物屋の婿養子に入ったのだ。嫁は三歳年上の出戻り娘。生活の安定を求め、武士を捨て、町人となったのだった。そんな中、馬琴の心を救ってくれたものがあった。それが、当時巷で流行っていた「読本(よみほん)」を書く、戯作(げさく)の仕事だった。馬琴は、当代一の人気戯作者 山東京伝(さんとうきょうでん)を生んだ出版の元締め、蔦屋重三郎の元に通いながら、物書きの修行をする。滝沢家再興の夢は、心の内に封印した。しかし、当時の戯作者は身分が低く、社会的にも認められた職業ではなかった。馬琴は、落ちるところまで落ちた、自分自身のふがいなさ、滝沢家を没落に導いた者たちへの、恨みつらみなど、己の怨念を筆にぶちまけた。

画像

そして書き上げたのが、月氷奇縁(げっぴょうきえん)。主君からの預かりものを無くしたと、無実の罪を着せられ、殺された侍女が怨霊となり、鬼や化け物の手助けで恨みを晴らす復讐譚。
この作品は、迫力のある描写と奇想天外なストーリーにより、1100部という思わぬヒットを記録する。馬琴はこのヒットにより、戯作者として生きていこうと決意するのだった。37歳の時のことだった。

二の鍵「八つの珠」

画像

当代一の人気戯作者となった馬琴だったが、自分が武士であることを片時も忘れたことはなかった。そんな中、次第に今までの読本とは違う、人の心に残るものを書きたいと思うようになる。そして、文化11年、11月。あの『南総里見八犬伝』が世に出ることになる。自害した姫から飛び散る八つの珠。八犬士たちは、その珠に導かれ、人が人として生きる道を貫く。この物語には、馬琴のある思いが隠されていた。

関ヶ原の戦いから200年余り。金がなくなれば、辻斬りもする武士達。役人の頭にあるのも、金と自己保身ばかりだった。“幼き日、父から教えられた、武士たるものの誇りと生き様。それが今は失われている・・・。”馬琴は八犬士たちに持たせた、「仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌」という言葉に、武士階級への痛烈な批判を込めたのだ。そんな正義の剣士が勇躍する、荒唐無稽な伝奇ロマンは、庶民だけでなく武士たちをも虜にした。

しかし、馬琴にとってこの物語は、単なる武家批判ではなかった。書いている途中で、無念の中で死んでいった父や、幼い頃、家督を継いだ頃の己の気持ちが蘇り、滝沢家再考への思いが募っていったのだ。物語も後半、関東を統括する大名の連合軍2万5千と、八犬士を中心とする里見軍8千との戦いを皮切りに、里見家再興へと向かっていく。馬琴は、己の執念が乗り移ったかのように里見家と滝沢家を重ね合わせ、その思いをひたすら紡ぎ続けていった。そして壮大な伝奇ロマン「南総里見八犬伝」は、江戸の世に大ブームを巻き起こす。

三の鍵「嫁 お路」

画像

「南総里見八犬伝」を書き続けて6年。連載が30回を超えた頃、馬琴に一つの希望が生まれていた。一人息子の宗伯が蝦夷松前藩に出入する医者となっていた。“これで滝沢家の再興が叶うかもしれない”と、馬琴は喜んだ。また、宗伯は勤めの傍ら、何本もの連載を抱える父のため、自ら原稿の校正も手伝ってくれた。さらに息子の嫁・路(みち)も、夜遅くまで執筆する父を気遣い、家族で馬琴を支えてくれていた。馬琴は思う存分、執筆に打ち込めるはずだった。ところが…

天保6年、息子の宗伯が37歳の若さで世を去ってしまう。残されたのは、まだ幼い孫の太郎。馬琴は、“太郎のためにも、お家再興の為に頑張らねば…。”と新たな気持ちで連載に取り組む。しかし、馬琴はこの時、すでに69歳。家も売り、昼も夜も書き続けた。

画像

そんな中、さらなる悲劇が襲い掛かる。天保10年、春。無理がたたったのか、左右の視力が衰え始め、ついにはかすむようになり、書いている文字が見えなくなっていた。
そして馬琴74歳の時、ついに両目とも失明する。しかし、八犬伝は未だ完結していなかった。思いあまった馬琴は、嫁の路に代筆を頼む。しかし最初、路は驚き、断ろうとする。それには理由があった。読み書きが充分に出来なかったのだ。だが、馬琴が頼れるのは路しかいなかった。

そうして、「南総里見八犬伝」の終盤、177話の途中から、馬琴の代わりに路が原稿を代筆するという日々が始まる。しかし、その作業は思っていた以上に困難を極めた。馬琴は手の平に文字の形を見せながら、路に一文字ずつ教え、文章を書かせていった。数々の難しい文字や、今まで知らなかった中国の故事など、路の想像を越える物語が展開されていく。しかし、路は、時に馬琴に叱られながらも、父のため、亡き夫のためにと必死で口述筆記を続け、献身的な努力を重ねたのだ。

そして天保13年、正月。「南総里見八犬伝」は、ついに完結する。全180話、106冊。制作年数28年に及ぶ、日本の古典文学史上、最長の作品が完成したのだ。それは、息子も視力も失った馬琴の、執念の傑作だった。

六平の傑作

南総里見八犬伝への執念

歴史に残る傑作、「南総里見八犬伝」だけど、
馬琴の執念がなければ、きっと傑作にはなっていなかった。
作品にかける「怨念」ともいえるほどの執念が
この名作の裏にあると知って、感動しました。
助けてくれた嫁の路さんにも感謝!