#71 2015年9月18日(金)放送 戦国最強伝説 真田三代 後篇

真田三代 後篇

関ヶ原の戦いで敗れ、九度山で幽閉生活を送っていた真田幸村のもとに使者が訪れた。それは豊臣方からの大坂冬の陣参戦への打診だった。「日本一の兵」と言われた智将・幸村。宿敵徳川家康に迫るまでの、その強さの秘密に迫る!

ゲスト

ゲスト 作家
木下昌輝

今回の列伝は、戦国最強真田三代、2週連続のスペシャル後篇。真田三代とは、あの真田幸村の祖父・幸隆(幸綱)、父・昌幸、そして幸村(信繁)の3人の戦国武将のこと。強者が乱立する中、弱小でありながら、知略と決断によって強かに生き抜き、後世に最強とその名を知らしめた男たちである。前篇では幸隆、昌幸の生き様に迫ったが、今回の後篇では、いよいよ真田幸村。日本一の兵と称賛されたその強さの裏側に迫る。

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九度山配流

数々の華々しい英雄譚に彩られた幸村だが、そうした伝説の裏側にある実像は、極めて屈辱的なものだった。次男として生まれた幸村は、真田家を守るための捨て石。上杉、豊臣などに人質として出され、他家でいつ殺されるかもしれぬ日々を過ごしてきた。関ヶ原で西軍についたがために、戦後は流刑に出され、借金苦と酒浸りの日々を送る惨めな幽閉生活を強いられる。追い打ちをかけるかのように父の死によって家臣たちが去り、物乞い同然となった幸村は、悲愴な思いを抱いていた。

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大坂冬の陣

九度山での苦しい生活が14年目になった頃、幸村の下に豊臣秀頼からの使者がやってくる。家康と戦うために大坂に来てほしいという言葉に幸村は感激。巨額の軍資金をもらい、武将として返り咲くチャンスを手に入れる。しかし、大坂冬の陣を前に、大野治長ら豊臣幹部たちは籠城策を主張し、幸村の野戦策はあっさり却下されてしまう。開戦まであと1か月と迫り、幸村は新たな秘策を生み出すべく思案し続けた。

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真田丸

大坂冬の陣が勃発し、20万もの徳川勢が大坂城を取り囲んでいた。幸村はこの日のために急きょ築いた出城「真田丸」に籠る。最新の研究によれば、真田丸の背後には断崖絶壁があることが判明。幸村は大坂城から最前線に飛び出し、超攻撃型の砦として徳川軍に立ち向かったのだ。戦国築城術の粋を集めた真田丸の真価に迫る。

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家康からの誘い

真田丸によってその軍才を両軍に知らしめた幸村だったが、家康が最新の大砲を用いて天守閣を攻撃し始めると状況が一変。豊臣幹部たちは和睦に応じ、その条件として巨大な堀が埋められ、真田丸も破壊されてしまう。次の戦を見越した家康の謀略。それは、幸村自身にまで伸びることになる。なんと10万石の大名に取り立てるから徳川に付けと家康が誘ってきたのだ。これに対し、幸村がとった行動とその思いとは?

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幸村伝説誕生

和睦からわずか数か月後、大坂夏の陣が勃発。大坂城の堀がなく真田丸もない圧倒的不利の戦局の中で、幸村は家康の首一点に狙いを定め、野戦に出る。だが、濃い霧が立ち込め幸村が後藤又兵衛の部隊と合流が遅れたがため、後藤は討死。復讐に燃えた幸村は軍神の如き戦いぶりで、数倍の兵力を持つ伊達政宗をはねつける。多くの武将たちが次々死んでいく中で幸村は、決死の覚悟を決めた。我こそ真田三代の誇りを継ぐ真田幸村であると。
そして、慶長20年5月7日、毛利勝永が活躍し徳川勢を引きつけた瞬間、幸村は松平忠直に決死の突撃をかけ、ついに突破。家康本陣に3度迫った。馬印が乱れ、本陣にまで迫られたのは家康が信玄に敗北した三方ヶ原の戦い以来であったという。しかし、幸村は家康を見失い、休息している途中敵兵に討たれ、戦場に散っていった。享年49。その後、伝説は生まれる。真田幸村は日本一の兵であったと。

六平のひとり言

幸村!あっぱれ!!!
泥沼の挫折から這い上がって、天下人家康の首をとる寸前まで行った。
その執念に、恐れ入りました。