#70 2015年9月11日(金)放送 戦国最強伝説 真田三代 前篇

真田三代 前篇

今回の列伝は、智謀を持って戦国の世を戦い抜いた真田一族。2週にわたって、その強さの秘密に迫る。”攻め弾正”と呼ばれ武田信玄を支えた幸隆。変幻自在な外交戦略で「表裏比興の者」と言われた策士・昌幸。徳川を2度破り、伝説を生んだ幸村。天下分け目関ヶ原の戦いを前に、真田家生き残りのために下した決断、「犬伏の別れ」の真実とは?

ゲスト

ゲスト 作家
木下昌輝
ゲスト 時代考証家
山田順子

今回の列伝は、戦国最強真田三代、2週連続のスペシャル前編。真田三代とは、あの真田幸村の祖父・幸隆(幸綱)、父・昌幸、そして幸村(信繁)の3人の戦国武将のこと。強者が乱立する中、弱小でありながら、知略と決断によって強かに生き抜き、後世に最強とその名を知らしめた男たちである。その強さの秘密は、乱世を懸命に生き延びようとする強い意志にあった。前編では、幸隆、昌幸の強さとその生きざまに迫る。

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攻め弾正 真田幸隆

真田三代の幕を開く男、真田幸隆(幸綱)。もとは東信濃の豪族であったが、北信濃の村上義清と甲斐の武田信虎によって滅ぼされ、他国に落ちのびるという大きな屈辱を味わっていた。故郷奪還を願う幸隆は5年の放浪の末、ある苦渋の決断を下すことになる。なんと、自らを滅ぼした敵・武田家の家臣になると決めたのだ。そのとき武田家の当主は、父・信虎を追放した武田信玄。信濃攻略を目指す信玄は、総力戦40日かけて真田の地にある山城・砥石城を攻めるも砥石崩れと呼ばれる大敗北を喫してしまう。ところが幸隆は、この城をわずか1日で落城させてしまう。果たして幸隆のとった方法とは?

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表裏比興の者 真田昌幸

幸隆が取り戻した領土を受け継いだのが真田昌幸であった。幸隆が信玄に差し出す人質として幼少期を送った昌幸は、武田軍学を吸収し、やがて信玄から我が目と呼ばれるほどの才覚を見せ始める。しかし、信玄の死、そして長篠の戦によって主君である武田家が滅亡し、真田家は大きな後ろ盾を失ってしまう。北に上杉、西に織田、南に徳川、東に北条と四面楚歌となり、昌幸は絶体絶命の窮地を脱するために、ある知略を持って生き延びる。その方法とは一体?

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第一次上田合戦

上田城を本拠地に定めた昌幸。しかし、大きな危機が訪れる。当時、信長の後継者をめぐり、家康と秀吉が対立。家康は秀吉との決戦のために北条との和睦を進めていたが、その際、真田の領土・沼田の地を渡すという条件を提示。昌幸には許しがたい状況が生まれてしまう。沼田の明け渡しを拒否した昌幸に対し、家康が怒り、第一次上田合戦が勃発する。昌幸の兵力2000に対し、徳川軍は7000と3倍以上。しかし、昌幸はこの戦いで大勝利を収める。その方法とは?

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犬伏の別れ

秀吉の死によって家康が台頭し、それに対して石田三成が挙兵。関ヶ原の戦いが間近に迫る中、真田家もまた大きな決断を迫られていた。家康につくべきか、三成につくべきか、真田親子は下野国・犬伏の地に集まり軍議を開いた。東軍西軍の戦局は五分。時勢を読み、生き残ってきた昌幸ですら、容易に決断できない状況に、軍議は結論がでないまま延々と続く。そして、昌幸はついに究極の決断を下す。それは昌幸と幸村は西軍、信幸は東軍につくというもの。親子兄弟で別れて戦うという途轍もない選択だった。

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第二次上田合戦

関ヶ原の戦いが迫る中、昌幸は上田城に籠り、徳川軍本体を率いる秀忠を迎え撃とうとしていた。昌幸の兵力はおよそ3000、対する秀忠は3万8000。しかも、率いるのは徳川四天王・榊原康政をはじめ歴戦の猛将たち。ふたたび絶体絶命の窮地に立たされた昌幸だったが、ありとあらゆる知略を結集させ、秀忠軍を翻弄。ついに徳川軍本体を関ヶ原へ遅参させることに成功する。稀代の軍略家として名を刻んだ第二次上田合戦での昌幸の活躍に迫る。

六平のひとり言

痛快な親子!巨大勢力徳川に、頭脳と策謀で
立ち向かい、こてんぱんにやっつけてしまった。
でも、その陰には、領民への思いやりと、
良い政治があったことを知りました。