#60 2015年7月3日(金)放送 江戸の天才和算家 関孝和

関孝和
(資料提供:一関市博物館)

今回の列伝は、江戸の天才和算家・関孝和。円周率を少数16桁まで割り出し、「傍書法」という独自の記号法を用いて多変数の方程を解くことに成功した。西洋数学の影響をまったく受ける事なく、それは同時代のニュートンにも匹敵するような業績だった。当時の日本の和算(数学)界では、その才能は突出。しかし役人としては、出世することなく生涯を終える。しかし彼の死後、その業績は後の和算家たちが「関流」として確立、その高等数学理論は近代日本の基礎となった。

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鳴海風
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時は貨幣経済で繁栄を極める江戸時代初期。庶民の間で空前の和算ブームが巻き起こっていた。当時日本独自に発展した数学“和算”。その大家ともいうべき一人の天才が、関孝和である。世界に先駆けた発見をいくつも成し遂げ、アルキメデスやデカルトなどの天才と共に数学史にその名を刻む男の正体は、実は甲府藩の一介の役人!その生涯は殆ど謎のまま…そんな江戸が生んだ大天才数学者の素顔に迫る!

円周率

関孝和が誕生したのは寛永21年頃と推測される。江戸詰めの武家の二男として生まれ、甲府藩・江戸詰め役人だった関家の養子に出される。そんな少年期を迎えていた関孝和が熱中した本が、当時庶民の間でベストセラーになっていた「塵劫記」。数学入門書で数字の読み方、九九、そろばんの計算方法などから、クイズのような問題まで!関もあっという間に虜になり、大人が解けない問題を軽々と解いていったと伝えられている。

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(資料提供:新湊博物館)

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そんな関は成人になると関家の跡を継ぎ、甲府藩の役人となる。しかしある日、奈良の寺に数百年誰も解けない謎の中国の算術書「揚輝算法」という書があるという噂を聞く。早速それを解こうとするが、なんと乱丁や答えの間違いなど不備の多いものだった。関はその全ての間違いを訂正し、ついに完璧に解き明かしたのだった。

さらに次に関が挑んだのは、人類の命題「円周率」だった。そもそもの発端は和算家・村松重清が発表した「算俎」という本。そこには円周率を導く方法が書かれていた。それは円に内接する正多角形の辺の数を増やしていき、円周に近づけて円周率を求めるというもの。村松は少数第7桁まで出していた。関も実際に正131072角形を作って円周率を出す。さらにより近似値を求めるため、世界では200年も後に発見される「エイトケン加速法」という方法を編みだし、少数第16桁まで求めたのだった!

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傍書法

関が30歳を迎える頃、都市部には算学を教える私塾が隆盛を極めていた。しかし関は看板も掲げずひたすら勘定方としてそろばんと帳簿に向き合っていた。そんな中、噂を聞きつけて教えを請う者も少なからずいたが、そういう人に対しては温かく迎え入れ自分の持てる知識を惜しみなく与えたと言われている。

そんなある日、一冊の算学書が発表される。大坂で名高い和算家・沢口一之が出版した「古今算法記」。そこには書いた沢口本人さえ解けない難問が15問載っていた。関も解いてみるが解けない。実は当時の計算方法は、天元術といって、算木というマッチ棒のようなものを碁盤の目のようなところに置いて方程式を立てる方法が取られていた。しかし、それでは未知数が複数ある問題を数式で表現しようとしても原理上不可能だったのだ。それに気づいた関は有る方法を思いつく。それが関の大発見「傍書法」と呼ばれるもの。未知数を表す代数を発明し、これによって西洋数学のように記号と数字を使って数式を表すことができるようになったのだ。

関の発見に驚愕した弟子達に勧められ関は「発微算法」という算術書を出版。
ところが…それが大きな騒動を生む。京都の和算家・佐治一平は「理術わずかに可にして、未だ可ならず」と酷評してきたのだ。これに怒ったのは弟子たち。彼らも対抗してその解説書を出版。これによって関の先進的な数学を和算家たちはようやく理解し、汚名返上。数学界に関の名は知れ渡るようになった。

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改暦

「発微算法」の出版以来、和算家として一躍その名を知られるようになった関はある命題に挑むことになる。それは…「改暦」、すなわち「暦」を作り直すというものだった。この時国内では改暦の機運が高まっていた。当時日本では中国から伝わった「宣明暦」という暦の算出方法を基に、1年のカレンダーを作っていた。しかし日本に輸入されてからなんと八百年も経過していた。1年に暦が2日もズレるほど誤差が累積し、農業など庶民の生活に影響が出ていた。暦を作るには天体観測と併せて、観測データを扱うための高度な数学の知識が欠かせない。関は中国の暦に関する書物を読み漁り、改暦のための研究に没頭。中でも13世紀末に中国で生まれた「授時暦」に注目した。授時暦は宣明暦より算出方法が複雑な分、非常に正確に暦を割り出せられるものだったのだ。こうして関は計算で暦を割り出していく。
ところが…人知れず情熱を注いでいる中、1684年に新しい暦が発表されてしまう。それは当代きっての天文暦学者・渋川春海が割り出した暦・貞享暦と命名された。関は志半ばで改暦の夢を打ち砕かれてしまったのだった。

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大成算経

40歳を過ぎた頃、時代は五代将軍・徳川綱吉の世になっていた。幕府は儒学を学問として奨励する裏で、儒学者らからはこんな批判が寄せられた。「和算家たちは難しい問題を解いているだけで全く世の役に立たないではないか」。それは数学は趣味の延長であり、遊びだというものだった。そんな世の中で関は猛然と弟子と共に著作に取り組み始める。それは1つ1つ自らが弟子と共に取り組んだ算学の数々を書き写すという作業。もう一度自らの算学という学問と向き合うために30年以上の月日をかけて自らの集大成を完成させた。それは20巻からなる数学大全集「大成算経」。円周率から傍書法までこれまでの研究すべてが記されている。数学を体系化し、後世の人々が数学を学問として学べるようにしたい、そういう思いが込められているのかもしれない。

実は関は完成の2年前にこの世を去っていた。それでも弟子達が師の志を受け継ぎ完成にこぎつけた。その後も脈々と弟子達によって関の数学は受け継がれ、やがて100年後には「関流」として確立。日本独自の高等数学として発展を遂げ、近代日本の基礎を築いたのだった。

六平のひとり言

100年どころか200年、世界より先を歩んでいた数学者が、
江戸時代の日本にいたとは!?
すごい驚きだったし、誇りに思いました。
そんなすごい能力を、決してひけらかすことなく、
ひっそりと、しかし、全人生をかけて取り組んだ関孝和の
人柄も、また素晴らしい!
世界に誇る、敬愛すべき日本人だね!