#54 2015年5月29日(金)放送 放浪記 林芙美子

林芙美子

今回の列伝は自伝的小説「放浪記」で有名な女流作家・林芙美子。複雑な家庭、赤貧の中で育った芙美子は作家を目指し上京、奔放な恋愛を繰り返えす。その心の渇きを文章に綴るものの、作家への道のりは険しかった。名作「放浪記」が生まれるまでの、芙美子の波瀾万丈に迫る。

ゲスト

ゲスト 作家
太田治子

放浪生活の始まり

明治36年、林芙美子は、山口県下関で生まれる。母親は、鹿児島で温泉宿を手伝っていた林キク。父親はキクの14歳年下で、行商人の宮田麻太郎(みやたあさたろう)。周囲から結婚に猛反対された2人は、籍を入れないまま、芙美子を産み落としたものの、父・麻太郎は芙美子を認知することはなかった。以来、世間から白い目で見られる暮らしが始まった。
しかし、この同居生活も、やがて破綻の時を迎える。6歳の時、芙美子は、父からこんな人生の選択を迫られたのだ。

「お前はどうする。
母ちゃんについてゆくか、
それとも父ちゃんとここにおるか」

父は芸者に入れあげ、母との別れを決めていた。
芙美子は即座にこう答えた。

「お母ちゃんと行く」

芙美子は母に手を引かれ、家を出た。実はこの時、母・キクは、父の使用人で、20歳も年下の沢井喜三郎(さわいきさぶろう)と、恋仲になっていたのだった。芙美子の、母と新しい父親との暮らしが始まった。
新しい父、沢井は、行商をして生計を立てていた。芙美子は、長崎から佐世保、久留米、門司、下関と、各地を転々。毎日食べることが精一杯の日々。7歳にして、果てなき放浪が始まったのである。

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文学少女

毎日、行商を手伝う日々。自らもアンパンを売り歩いた。学校にもまともに通うことができず、寝泊まりは地元の木賃宿だった。誰がどう見ても不幸の塊のような少女時代。学校にもろくに通わず、友達もいなかった芙美子。しかし芙美子には、寂しさを埋めてくれるものがあった。創刊されたばかりの少女向け雑誌「少女の友」だ。開けばそこに、夢の世界があった。華やかな生活、くるおしいほどの恋。芙美子は、「少女の友」の小説や詩を貪るように読みふけり、自分も詩をしたためるようになった。

「大きくなったら自分も作家になってみたい」

これが、芙美子の人生を支える「夢」となった。

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恋多き女

尾道の女学校を卒業した芙美子は、東京で作家になるのだと、当時の恋人、岡野軍一(おかのぐんいち)を追って上京する。しかし…わずか半年で破局。彼の両親の猛反対にあったのだ。東京に身ひとつで放り出された芙美子は、カフェやセルロイド工場で働き、毛糸屋の売り子、代書屋など、生きるために職業を転々とすることになる。文学どころではなかったが、それでも芙美子は、日々の暮らしと、そこから生まれる感情を詩にあらわして、「歌日記」と題して綴っていった。

やがて芙美子は1人の男と出会う。「芸術座」の俳優で詩人でもあった田辺若男(たなべわかお)。田辺は芙美子の文章を読んでその才能に驚く。
「君はきっと作家になれる。」
田辺は、芙美子の文学的才能を絶賛した。すると芙美子は、田辺のもとに、風呂敷き包みを抱えてやって来てしまった。

「田辺さん、きょうから私と一緒に暮らしましょう」

田辺に女優の恋人がいることを知った上での同棲生活。しかし、この田辺との関係は、芙美子の世界を広げていく。田辺を通して、詩人や俳優、小説家と次々と知り合っていったのだ。生活のために働きづめだった芙美子の交友関係が一気に広がった。

詩人で童話作家の野村吉哉(のむらよしや)もその中の一人だった。田辺のもとを離れた芙美子は、野村に思いを寄せ、知り合ってまもなく一緒に暮らし始める。当時、野村吉哉は、印刷工などして働きながら、作家活動をしていた。しかし原稿は全くと言っていいほど売れず、しかも、肺に病を抱えていた。そんな野村の前でも芙美子は、いつも天真爛漫に振る舞っていた。しかし、その芙美子の振る舞いが意外な結果に…
なんと野村は常に天真爛漫な芙美子にイラつき暴力をふるうようになったのだった。しかも、野村に新しい愛人ができてしまう…芙美子は、たまらず、家を飛び出した。

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結婚、そして…

上京してから4年後の大正15年。林芙美子は突如、1歳年上の画学生、手塚緑敏(てづかりょくびん)と結婚を果たす。生まれてから23年間続いていた「放浪生活」がようやく幕を閉じた。それは芙美子にとって、書くことに専念できる時間を手に入れた瞬間でもあった。
貧乏暮らしの中、ひたすら作品を描き続ける林芙美子。しかし、どんなに書いても、作家になる足がかりさえつかめなかった。新聞社、雑誌社に原稿を送っても、ことごとくボツ。それでも芙美子は諦めない。書いては出版社に売り込み、突き返されてはまた書く。何度ボツになろうが、書き続けた。
とはいえ、このころ世間は未曾有の大不況。仕事をせずに書き物ばかりをしていると、金がなくなる、食べるものがない。いつしか詩を書く紙にもこと欠くようになった…

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傑作『放浪記』の誕生

決して夢を諦めない芙美子は、金欠のあまり原稿用紙がなくなっても、新聞紙に詩を書き連ねた。また、空腹に襲われた時は、こんな夢想をすることも…

「他人の家に忍び込み、金目の物を盗み出そうか…」
「それとも、いっそのこと、売春街に身を売ってしまおうか」

いったいいつになったら作家になれるのか?
やがて芙美子は、日記の中で、尾道の母にこんなことを語りかけるようになる。

「おかあさん、ごめんなさい。私はもうこれっきり。」

絶望の末、命を断つことも考えた。しかし、そんなこれ以上ない逆境の中でも、芙美子は書くことをやめなかった。文学だけが、芙美子の心を支えていた。芙美子は、そんな苦しみ、悲しみ、嘆き、あせりのすべてを「歌日記」に綴っていく。

昭和3年。売れない原稿を書き続けていた林芙美子に、突然、呼び出しがかかる。訪ねてみると、そこには、当時大人気の女流作家長谷川時雨(はせがわしぐれ)がいた。まさに憧れの人!長谷川は芙美子に、「歌日記」を雑誌に載せたいという。青天の霹靂(へきれき)だった。

当時、長谷川時雨は、女性作家による女性のための雑誌「女人芸術(にょにんげいじゅつ)」の発行を目指し、新たな才能を持つ作家を探していた。そんな時、編集者のボツ原稿の中に埋もれていた芙美子の「歌日記」を見つけたのだ。そこには、どん底の中で逞しく生き抜いてきた一人の女性の人生が、明るく、生き生きと描かれていた。芙美子の「歌日記」は、「放浪記」と改題され、「女人芸術」での連載が始まった。そして、2年後の昭和5年、単行本として刊行される。
冒頭はこんな言葉からだった。

「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。」

芙美子の「放浪記」は爆発的な売れ行きを記録。60万部の大ベストセラーとなった。大不況、そして戦争の足音・・・。昭和初期の不安な暮らしを送る人々が、芙美子の「放浪記」を手に取ったのだった。親もなく、家もなく、故郷さえない流浪の生活を送ってきた。男から男へ。心の渇きを癒すため彷徨った。でも、明るさを失わず、未来を信じて生きてきた。
そして誕生した『放浪記』
貧しさや困難、挫折にも負けず、常に明るく生きる一人の女の物語が、人々を勇気づけたのだった。

六平のひとり言

貧乏でも、悲惨でも、それをしっかりと
受け止めて、ものすごく明るい。
文学に対して、恋に対して、生き様そものが、
100%ポジティブな林芙美子に、
元気と勇気をもらいました。