#30 2014年11月7日(金)放送 不屈の伝染病研究 野口英世

野口英世

今回の列伝は医学者・野口英世。赤貧、左手の大火傷…ハンディキャップを不屈の努力で乗り越えた、まさに偉人中の偉人。しかし、多大な浪費癖と借金を繰り返したという意外な一面もあった。学歴がないため渡米し、研究に没頭。ノーベル賞候補にまでなる。しかし、その立身出世の陰には波乱の人生があった…。

ゲスト

ゲスト 作家
童門冬二
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大やけど

1876年、野口英世は、福島県猪苗代町の貧しい農家の長男として生まれた。
かつては裕福な農家だったが、父・佐代助の大酒飲みが原因で家は傾き、毎日の米さえ、近所から借りるような有様だった。一家の暮らしを支えていたのは、母のシカ。田んぼの仕事から、子育て、家事一切を担っていた。そんなシカが一歳半の英世を家に残し、近くの小川で洗い物をしていた時、耳をつんざくような泣き声に気づき駆けつけると、囲炉裏に落ちた英世の左手が赤く焼け焦げていた。近所に医者もなく、シカが懸命に看病するも、手の平に癒着した英世の指をどうすることも出来なかった。

その後7歳で、英世は小学校に入学する。しかし、学校で待ち受けていたのは、同級生たちからの心ない虐めだった。手の平に固まった指を、容赦なくからかわれる。英世は心の中で誓った。「一番になって、絶対に見返してやる!」その言葉通りに、英世は入学して半年後には、学内トップの成績を収め、学術優等賞をもらう。実力で、周囲の声をねじ伏せたのだった。

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医学への道

小学校での成績がトップになった英世は、いつしか高等小学校への進学を夢見るようになっていた。しかし家計は苦しく、自分で学費を稼ごうにも、不自由な左手のために出来ない。落ち込む英世に、手を差し伸べてくれる人物が現れた。猪苗代高等小学校の教頭・小林栄だった。小林は、村の中で評判だった英世の優秀さを見込んで、自分が勤める学校に通わせようと、学費を援助してくれたのだ。思わぬ幸運に感謝し、勉学に邁進する英世だったが、どうしても左手のコンプレックスが消えず、ある日、作文の授業で、長年苦しみ抜いてきた思いをぶちまけた。

「鉛筆を削ることが出来ない」「弁当箱を開けるのも容易じゃない」「自分はナイフで、癒着した指を切り離そうとした」
この作文は同級生たちに衝撃を与え、級友達は英世の手を何とかしてあげたいと声を掛け合い、カンパを募った。小林を始めとする教師たちも加わり、およそ10円が集まり英世は手術を受けることになる。

執刀したのは、会津若松の外科医・渡部鼎(かなえ)。アメリカで医学を学び、サンフランシスコで開業するなど、華々しい経歴を持つ大物医師だった。長年放置されてきた癒着部分は、少しメスを入れるだけで血があふれ出す程だったが、渡部の見事なメスさばきによって成功、指は切り離された。その後、高等小学校の卒業が近づき進路を問われた時、間髪を入れずこう答えた。
「自分は医者になろうと思います」英世、この時17歳だった。

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借金魔・浪費癖

英世が郷里の親友に宛てた手紙が書簡集に残されている。そこには、こんな文章が… 「小生も中々こまりがちに御座候。しかしここに、五拾円の金子あらば、実に満足の次第に御座候」金を無心する手紙だった。これこそが、努力家・野口英世のもう一つの顔。ひたすら人に金を借りまくるのだ。英世はわずか21歳で医術開業試験に合格、開業医の資格を得る。しかし、完全には動かせない左手と資金不足のため開業医を断念、研究者の道に進むことを決意する。

注目したのは、当時、医学の分野で最も脚光を浴びていた、「細菌学」だった。英世はツテを頼り、世界的細菌学者として名を馳せていた、北里柴三郎率いる伝染病研究所の研究員となった。しかしそこは、北里以下、赤痢菌を発見した志賀潔もいる、一流大学出のエリート研究者の集団。英世は医術試験のため独学で身につけていた、得意の語学力を生かし、医学書の翻訳や、外国人訪問客の通訳係として、次第に認められる存在となっていく。しかし、英世は悩んでいた。「自分は一流大学を出ていない、まして留学もしていない。このままで立派な研究者になれるのか…。」

そんなある日、一つの出会いが訪れる。入所から2年目、伝染病研究所に、アメリカの大学教授で、著名な細菌学者、シモン・フレキスナー博士が訪ねてきたのだ。通訳を任された英世は、この機に乗じてフレキスナーにアメリカで研究したいと、留学への熱い思いを告げた。「アメリカに来た時には、力添えしましょう」と答えたフレキスナー。この一言に歓喜した英世は、本気でアメリカ留学を決意する。しかし、肝心の渡航費用がなかった。金を借りようにも、周囲の人たちからは、すでに借りまくっていた。“どうにか手立てがないものか“と思っていた時、ある資産家夫人に気に入られ、渡航費用300円、現在の300万円を用立ててもらえることになった。

「これでようやく、アメリカに渡れる!」と、喜びに胸を膨らませた英世は、ある日自ら送別会を開いた。会場は高級料亭として名高い、「神風楼」(じんぷうろう)。今宵は別れの日と浴びるように酒を飲み、ついには芸者を呼んでの、どんちゃん騒ぎ。終わってみれば、財布に残っていたのは、わずか30円だけだった。この絶体絶命の大ピンチに英世は、以前から何度も生活費を出してくれていた知人に、泣きついた。英世の手を手術した渡部の友人で、英世の才能を見込んでいた血脇守之助だった。血脇は何と英世のために、高利貸しから300円を借り、用立ててくれた。英世は涙を流して感謝したが、血脇は金を、出発の当日まで、渡さなかったという。こうして英世はフレキスナーを頼って、アメリカへと向かった。24歳だった。

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人間発電機

1900年、アメリカに渡った英世は、ペンシルベニア大学のフレキスナーの元を訪ねる。突然訪ねて来た英世にフレキスナーはとまどうが、熱意に負け、ポケットマネーから月8ドルの給料を出し、私設秘書として雇い入れてくれた。
フレキスナーが英世に最初に与えた仕事は、生きた蛇から蛇毒(じゃどく)を採取することだった。当時アメリカでは、ガラガラ蛇に噛まれて命を落とす人が多く、毒液の解明と抗血清の製造が急務となっていた。フレキスナーは、自らの研究室のスタッフだけでは手が回らず、英世を使うことにしたのだ。

「このチャンスを絶対に逃さない!蛇毒のメカニズムを解明し抗原体を作り出せれば名を成すことが出来る!」英世は野心を胸に秘め、秘書でありながら研究者顔まけの取り組みを始める。そして命がけの解析に取り組んで1年後、英世はフレキスナーを驚かせることになる。蛇毒には神経毒と血液毒がある事は知られていたが、それが、全く別な物質であることを突き止めたのだ。英世の研究によって、免疫血清、抗血清の製造が可能となったのである。後に、蛇毒研究の集大成となった研究書も出版され、英世はアメリカの医学界で称賛を浴びた。
この功績がきっかけで、英世はわずか27歳で、ロックフェラー医学研究所の一等助手に抜擢される。最初の研究テーマとして選んだのは、梅毒だった。当時、梅毒と精神病との関連について、世界の研究者が先陣争いをしていた。英世は、末期の精神病患者の脳をスライスし、そこから梅毒の病原体を発見する作業に取りかかる。毎日200枚もの切片標本を1枚1枚、丹念に顕微鏡で覗く気の遠くなるものだった。いつしか、周囲の研究者たちは、「あの日本人は一体いつ眠るのか?」と訝しがり、英世を「人間発電機」とあだ名した。

不眠不休の日々の中、4年後の36歳の時、ついに、患者の脳内から梅毒の病原体・スピロヘータを発見する。この発見は梅毒と精神病との深い関わりを証明し、治療に重要な役割を果たす、画期的なものだった。そして38歳の時、ノーベル生理学・医学賞の候補となったのだ。
英世が信条としていた言葉がある。
「努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも、三倍、四倍、五倍勉強する者、それが天才だ。」

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人類のために死す

1910年代、南アメリカでは、ネッタイシマカを媒介して感染する伝染病が流行していた。死の病と言われたその伝染病こそ、黄熱病。死亡率は30%〜50%。重症の場合、高熱や内臓からの出血などにより、1週間程度で死に至る。
当時、病原体は不明で、世界中の細菌学者がその特定に取り組んでいた。1918年、42歳になっていた英世は、黄熱病が猛威を振るっていた、南米エクアドルへと渡る。現地に降り立つやいなや、黄熱病で死亡した患者の血液を採取、研究室に閉じこもり、わずか9日で、今まで見た事のない細菌を発見する。英世は、ワクチンと血清づくりに取り組み、翌年ワクチンが完成。
その後、エクアドルの兵士1000名にワクチンが、そして患者には血清が打たれ、その結果、発病は激減、死亡率も16%にまで減少する。英世は一躍、エクアドルの救世主となった。陸軍からは名誉軍医監、大佐の称号を贈られる。この事実は世界に伝わり、英世が黄熱病の病原体を発見、成果を上げたと報道された。

しかしそんな矢先、その研究成果に疑念を投げかける者が現れた。同じく黄熱病の研究者であった、キューバの博士が、英世が発見したのは、別の伝染病の病原体なのではないか、と異論を唱えたのだ。さらに西アフリカから、英世を窮地へと追い込むニュースが飛び込んでくる。アフリカで流行していた黄熱病の治療に、英世のワクチンは効果がないというのだ。
1927年、自らの目で確かめるため、英世は西アフリカのガーナ共和国、アクラへと乗り込む。すぐさま、死亡した患者から血液を採取、顕微鏡を覗く。だが、突きつけられた事実は、あの病原体が発見出来ないことだった。
「自分は間違っていたのか・・・」
着任から1か月後・・・英世は突然の悪寒と吐き気に襲われる。黄熱病を発症していた。自身が開発したワクチンを投与するも、効果はなかった。そしてアクラに赴任し7ヶ月後の1928年、5月21日。野口英世、死す。10年もの間、黄熱病と闘い、ついにその命を燃やし尽くした。

ニューヨーク・ウッドローン墓地にある英世の墓には、こう刻まれている。
「科学への献身により、人類のために生き、人類のために死す」
英世は黄熱病の正体を突き止めることは出来なかったが、世界は命を賭した研究者に最大級の賛辞を贈り、哀悼の意を捧げた。

六平のひとり言

苦学とハンディを背負って世界的な功績を残した偉人中の偉人!
でも、その素顔は、とても人懐こい、浪費家にして借金魔だった。
それを知って、改めて野口英世が大好きになりました。