#25 2014年10月3日(金)放送 江戸町奉行 大岡忠相

大岡忠相

今回の列伝は「大岡裁き」でおなじみの江戸町奉行・大岡忠相。官僚として8代将軍徳川吉宗の享保の改革を支え、幕府の法典・御定書百箇条の作成にかかわった。そこには公正公平な大岡の信念が込められていた・・。庶民のヒーロー大岡越前の実像に迫ります!

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ゲスト 歴史学者
大石学
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時代劇で有名な「大岡越前守忠相」。ドラマの中では人情派のお裁きで知られる大岡だが、実像は江戸時代中期、構造改革をなしとげた官僚だった。一官僚は、なぜ後世まで語り継がれる「庶民のヒーロー」になったのか?大岡忠相の波乱の生涯にせまる。

若き日に受けた“理不尽”

子供のときからその賢さを認められた忠相は10歳のとき、親類の大岡家に請われ養子となる。大岡家は1920石を支配する旗本。その日から大岡忠相の将軍家に仕える人生が始まったのだ。だが、ときの将軍5代徳川綱吉の政治は、忠相の期待を裏切るものだった。17歳の時、江戸城勤めをしていた実家の兄が、将軍の怒りを買っただけで島流しの刑を受ける。さらに3年後、大岡家の親類が起こした殺人の連帯責任だとして、忠相自身も謹慎の刑を命じられる。あまりにも厳しく、確かなルールもない「理不尽」な政治に忠相は無念さを噛み殺した。

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主君・吉宗との出会い

謹慎で出世レースから出遅れた忠相が、幕府の役職を与えられたのは26歳のとき。遅れを取り戻すために必死で働いた忠相は、その能力を認められ出世を果たしてゆく。36歳の時には伊勢の行政を担当する山田奉行に任命。このときの働きぶりを示すある伝説が残っている。
当時、伊勢では山田村と松坂村という2つの村の境界争いが起きていた。道理は山田村の方にあるのだが、松坂村は紀州藩がおさめる地。それまでの山田奉行は徳川御三家の一つ、紀州藩とのもめ事を恐れ、判断を先延ばしにしていた。しかし就任したばかりの忠相は、そんなことは気にかけず、あっさりと山田村の勝訴としてしまったのだ。若き日に受けた理不尽な裁きが、頑固なまでに「公正」を守る忠相を作り出した。
その5年後、忠相は江戸城に呼び出される。命じたのは8代将軍に就任したばかりの徳川吉宗。彼は思わぬ言葉を口にする。「江戸の町奉行に任命する」と。町奉行は旗本の頂点に立つ役職。41歳での就任は異例の大出世だった。財政難の中で将軍となった吉宗は、かつてない構造改革を決意していた。その実務をまかせる優秀な官僚として、山田奉行時代の噂を聞き、忠相を指名した。自分を信じてくれる主君のもと、忠相はいよいよその能力を発揮してゆく。

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火事との戦い

吉宗が忠相に最初に命じたのは「江戸を火事に強い町にすること」だった。人口100万都市に急成長をとげた江戸にとって火事は大敵だった。20年に1度は大火事に見舞われ、その再建のたびに莫大な費用がかかっていたのだ。そこで忠相が考えたのは「町火消の設置」だった。それまで消防は、大名や旗本が行っていた。しかし、彼らは武家屋敷を最優先に守ろうとする。それでは火事は防げない。一番火事が多い町人のエリアの消防を、忠相は町人自身に任せようとしたのだ。さらに吉宗の期待に応えるため、さらなる改善をはかる。

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(資料所蔵:消防博物館)

当時町人の家は茅葺きのものが多く延焼の原因となっていた。そこで忠相は名主を集め「茅葺きの建物は瓦葺きにするよう」命じたのだ。しかしこれに町人は大反発。瓦屋根にするには家の土台から建て直さなくてはならない。どこにそんなお金があるのか?忠相は反発する名主を謹慎させるなど、強引な手段をとった。結果的に江戸は火事に強くなったが、町奉行・大岡忠相は庶民の敵になってしまったのだ。理想と現実の間で、官僚大岡忠相は悩んでいた。

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新たな土地を開発せよ

将軍・吉宗は忠相にさらなる難題を課す。それは「江戸の西に広がる武蔵野台地を開拓し、年貢を増やす」こと。深刻な財政難を打開するための策だった。しかし忠相は困ってしまう。本来、幕府直轄地での年貢の取立ては勘定奉行の仕事、まったく専門外の仕事である上に、自分は庶民の心がわからない嫌われ者なのだ。そこで忠相は自分の手足となってくれる者を起用した。農業技術に精通している農民の川崎平右衛門、治水技術に通じている下っ端役人の田中丘隅、下町で商いをし、山師もしており、世情に詳しかった元能楽師の蓑笠之助。本来なら武士を起用するところ、忠相は在野の者を起用した。庶民の心を知るのは庶民しかいないと考えたのだ。
彼らは、引き立ててくれた大岡を「お頭」と呼んで慕った。そして農民たちの声に耳を傾けながら、専門知識を活かし、不毛と言われた武蔵野台地に82の農村と12600石の新田を開発したのだ。「庶民の心を聞いてくれるお奉行様」。忠相のイメージも変わっていった。

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傑作・御定目書百箇条

吉宗の難題を解決しながら、忠相は町奉行として実務もこなした。裁判もその一つ。時代劇のように1人でするのではなく、多くは合議で裁決をしていた。
その中でも忠相は、公正を守る裁判をしていた。罪人の冤罪が発覚したときには、罪なき者が罰せられないよう再吟味をするよう他の奉行にかけあうこともあった。

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在任中に忠相が裁いた事件は数千を超えると言われる。そして吉宗は、そんな大岡に最後の課題を与える。「江戸の法典を作ってほしい」と。それが大岡忠相の傑作、公事方御定目書の下巻にあたる、通称「御定目書百箇条」。忠相は、増補・改訂の責任者としてこの江戸時代最初の法典を完成させたのだ。それまではまとまった法典が存在しなかったため、人により、あるいは気分により裁定がコロコロ変わっていた。御定目書百箇条により、誰が裁いても同じような結果になる裁判ができるようになったのだ。それはこの先125年つづく江戸時代の平和の礎となるものだった。
忠相の死後、その伝説は講談や歌舞伎の題材となり庶民の間で広がっていった。官僚として誠実に公正に働きつづけた大岡忠相の人生こそが、彼を「江戸のヒーロー」にしたのだ。

六平のひとり言

テレビドラマでの名奉行ぶりが印象的で、すっかりそういう人物だと思い込んでいた。
徳川吉宗の右腕として、様々な改革に取り組み、
さらに現代にも通じる法律まで整えたと知って、本当に驚きでした。
そういう意味で、テレビドラマ以上に、本当に庶民の味方だった人なんだね。