#10 2014年6月20日(金)放送 南極探検 白瀬矗

白瀬矗

今回の列伝は日本人として初めて南極に足跡を残した白瀬矗。今から100年前、英国のスコット、ノルウェーのアムンセンと威信をかけて未踏の南極点を目指した・・。極地を夢見た男の波瀾万丈の人生とは!?

ゲスト

ゲスト 報道カメラマン
宮嶋茂樹
ゲスト 国立極地研究所名誉教授
渡邉興亞

今回の列伝は、南極探検の白瀬矗(のぶ)。今から100年ほど前、まだ日本人が南極なんてイメージできなかった時に、資金を集め、隊員を集め・・幾多の難題をクリアーして、日本人として初めて南極大陸に上陸した男。その壮大な夢と執念を探ります。

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Unexplored(未踏査)と書かれた北極の地図

秋田のわんぱく少年の夢

幕末の1861年、秋田の金浦という漁村で生まれた白瀬は、恐ろしく腕白な少年だった。寺子屋の先生・佐々木節斎が白瀬を諌めるために、「西洋には、遠く北極まで探検するような人がいる」と聞かせると、11歳の白瀬は、心に火がついて、「西洋人に出来て、日本人にできないのは、悔しい!自分を北極探検家に育ててください」と懇願する。節斎は、それならと五つの戒め=「五戒」を与える。それは、酒、煙草をのむな、茶も湯も飲むな、冬も火にあたるな・・という厳しいものだった。白瀬は、それを忠実に守るのである。

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死の千島探検

北極探検に行くには、軍隊に入るのが近道と、18歳で陸軍に入隊。しかし、なかなかチャンスがない中、陸軍大将・児玉源太郎と出会い、「樺太か千島で極寒に耐えられることを示せ」と助言される。折しもロシアから譲り受けた千島列島に海軍が千島探検隊を派遣することが決まり、そこに参加する。しかし、マイナス40度を越える極寒の千島は地獄だった。寒さと栄養障害で次々に倒れる隊員。2年5ヶ月の探検で隊員のほとんどが死亡。しかし、白瀬は、“五戒”のおかげもあり、生き残った。

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南極へ向かう開南丸

北極から南極へ!

日露戦争が終わって、中尉に昇進した白瀬は、衝撃的なニュースを目にする。「アメリカの探検家・ピアリーが北極点に初めて到達した」というのである。11歳からの夢が潰えたと茫然自失の日々を送るが、やがて、ある決心をする。「北極は先を越されたが、南極はまだ誰も到達していない。南極に挑もう」と新たな目標を立てた。この時、白瀬48歳。最大の問題は、莫大にかかる資金だった。政府に南極探検の請願書を提出。両院で認められたものの、1銭の金も出なかった。行き詰った白瀬は、大物政治家の大隈重信に協力を仰ぐ。白瀬に共感した大隈は、後援会長に就任して、義援金を集める演説会などを開く。隊員も募集する。条件の一つに「家族の係累なき者」というのがあった。死を覚悟した探検なので、悲しませる者がいない方がよいという考えだった。27人の隊員・船員が決まったが、肝心の船がなかなか決まらない。やっと決まった船は、204トンの鮭とり漁船だった。国民からは不安や疑問の声があがった。

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ペンギンを抱いた隊員たち

魔の海域

1910年11月29日、白瀬南極探検隊は、「開南丸」と名付けられた船で東京・芝浦を出航した。しかし思わぬ事態が次々に起こる。南極大陸での運搬用カラフト犬が次々に死亡。加えて、赤道付近の暑さで、食料の殆どを腐らせてしまう。ニュージーランドで食料を補充して、南極大陸を目指す。しかし、ここからが一番の難所だった。南極海は、荒れ狂う「魔の海域」なのである。そして、日本を離れて3ヶ月あまり、遠くに南極大陸が見えてきた。でも、すでに海が凍結し始めていた。このままでは、海に閉じこめられてしまう。白瀬は、決断し、引き返すことにした。

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日章旗を立て大和雪原と命名

南極点を目指す

白瀬南極探検隊は、体制を整えるために、シドニーに入港する。白瀬は日本の大隈に電報を打ち、食料、犬、燃料補充をお願いする。そして、シドニーでキャンプをしながら、南極海の氷が緩むのを待って、6ヶ月後、再び南極点を目指す探検に船出する。この時、イギリスのスコット、白瀬、そしてノルウェーのアムンセン、3つの隊が南極点を目指していた。1912年1月16日、南極大陸 ロス棚氷に上陸する。白瀬隊は、急いで荷物を降ろし、5人の突進隊が2台の犬ソリで南極点を目指した。途中ブリザードにあって、後続のソリを見失うも、犬の凍傷による出血をたどって合流するなど難関をくぐり抜ける。しかし、隊員、犬の体力の限界と食料の不足でこれ以上進むことは困難になる。白瀬は決断する。「南緯80度5分に到るや一歩も前に進む 能わず。進まんか、死せんのみ・・・我は泣いて使命のためにこの上の行進を中止しぬ」。白瀬は、この地点一体を「大和雪原(やまとゆきはら)」と名づけ、日章旗を掲げ、万歳三唱した。そして、1912年6月20日。1年7か月、4万8千㎞の大航海を終え、隊員・船員合わせて27名、一人もかけることなく全員無事帰国。東京・芝浦では5万人の大観衆が彼らの偉業に熱狂した。11歳の決意から40年。白瀬矗は51歳にして、思い続けてきた夢を叶えた。日本人には、西洋人に決して負けない気概と勇気、そして、探検魂があることを、世界に証明して見せたのである。

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晩年の白瀬

追記

同時期に南極点を目指していた、他の隊だが・・・ノルウェーのアムンセンが南極点に1番で到達する。遅れてイギリスのスコット隊も到達するが、帰るときに遭難して全員死亡した。生きて帰ることを決断して、無事に帰国した白瀬は、1913年に探検の記録「南極記」を出版。これは、貴重な資料として後の調査の参考になった。白瀬は、帰国後、南極探検の記録フィルムを持って全国を講演して回った。南極探検の時の費用の借金が現在の4億円ほどあったが、白瀬は、20年ほどかけて完済した。

六平のひとり言

南極点まで到達できなかったのは、さぞ無念だったと思う。
でも、引くことも、大いなる決断。無事生還したおかげで、
その偉業が今につながっているわけだから。
番組では紹介できなかったけど、南極から戻った白瀬には
探検費用に充てた億単位の借金ができていた。
でも、20年かけて返したっていうんだから、それもすごい。