#05 2014年5月9日(金)放送 『日本地図』を作った不屈の魂 伊能忠敬

伊能忠敬

今回の列伝は「大日本沿海輿地全図」をつくった伊能忠敬。人生50年といわれた江戸時代に、50半ばから17年間、実に地球1周分を歩き続けた男の偉業を読み解く。日本地図を作れという幕命を天命と受け止め忠敬の執念とは!?

ゲスト

ゲスト 伊能忠敬研究会特別顧問
星埜由尚
ゲスト 歴史家・作家
加来耕三
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文政4年(1821)7月、江戸城。「大日本沿海輿地全図(だいにほん えんかい よちぜんず)」が、大広間いっぱいに広げられた。それは、日本列島の姿が正確に記された史上初の地図。幕府はそのスケールと精密さに驚愕した。創ったのは、伊能忠敬。なんと、50歳を過ぎてから一念発起し、17年かけて日本全土を測量して回った。その距離は実に4万キロ、地球一周分に及ぶ。

完成に至る道のりは、苦難と挑戦の連続だった。命がけで挑んだ、未開の大地。悪化する重い病。そして告げられた、驚きの幕命—
日本地図を創った男の、壮絶な生き様に迫る!

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地球の大きさ

千葉・九十九里で漁業を営む家に生まれた、伊能忠敬。18歳の時、その利発さを見込まれ、佐原村の名家・伊能家に婿として迎えられる。傾いていた伊能家の財政を立て直そうと、忠敬は懸命に働き続けた。そして30年かけ、およそ3万両(現在の45億円)もの財産を築き上げる。しかし、実は長年秘めた夢があった。当時最先端の学問、「天文学」の道に進みたかったのだ。天文に関する書物を江戸から1000冊以上も取り寄せ、毎晩その書物を読みふけるのが、至福の時間だった。そして、49歳のある日、決心する。家督を長男に譲り、ひとり家を出た。

忠敬が向かったのは、江戸の幕府暦局(れききょく)。日夜天体の動きを観測し、国の暦を作成する天文学の最先端機関だ。忠敬は、暦局の第一人者・高橋至時にかけ合い、その情熱で異例の弟子入りを認めさせた。当時、暦局はある難問を抱えていた。それは“地球の大きさ”。地球が球体であることは西洋から伝わっていたが、その大きさが分からず、正確な暦づくりに支障をきたしていたのだ。高橋は、“最北の地、蝦夷地まで行って計測できれば、正確な値が出せるはずだ”と言い出した。当時蝦夷地と呼ばれた北海道は遥か北方の未開の地で、幕府の許可なく立ち入ることは出来ない。しかし、時代が後押しした。1792年、ロシア使節・ラクスマンが突如根室に来航し、鎖国状態の日本に通商を求めていた。幕府は、蝦夷地の形状を正確に把握していない。その海岸線を詳細に描いた地図が必要だった。そこで、高橋と忠敬は“正確な地図を作製する”という名目で、蝦夷地行きを申し立てた。果たして、狙い通り幕府から許可が下りた。忠敬はおよそ80両、現在の1200万円に当たる額を自ら持ち出し、壮大な挑戦を始める。

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命がけの測量

草鞋もことごとく切れ破れ 素足になり 甚だ困窮
迎えの提灯を目にしたときは まさに 地獄に仏

(襟裳岬での様子を記した日記)

蝦夷の自然は想像以上に厳しく、測量は困難を極めた。しかも、忠敬は身体が丈夫ではない。「咳」と、度々熱が出る「瘧(おこり)」(マラリアの一種)という持病を抱えながらの、まさに命がけの旅だった。襟裳岬では、そそり立つ険しい岩場を前にやむなく海岸線を辿ることを断念する。さらに辺りを闇が包み始め、途方に暮れていたところで迎えの提灯と出会い、救われた。
江戸から歩くこと1600キロ、106日がかりで蝦夷の測量を終えた。決死の思いで創った「蝦夷地測量図」は、幕閣たちを大いに感心させる。ところが、忠敬だけは納得していなかった。命題だった“地球の大きさ”が解けていなかった。蝦夷地の測量は予算と時間が限られていたため、その正確さを信頼できなかったのだ。もう一度、正確に測量し直したいと望む忠敬に、地図の出来を認めた幕府から思わぬことが告げられる。
「東日本全体の地図を作成せよ」—。

忠敬は4年がかりで東日本をくまなく測量して回る。出来上がった東日本の地図は、1枚畳一畳分の地図が69枚という大きさ。幕閣たちは驚きとともに賛辞を送り、ときの将軍・徳川家斉も喜んだという。

東日本の測量データを元に“地球の大きさ”に挑んだ忠敬は、何百回も繰り返した計算の末に緯度一度の距離を「28.2里」、およそ111キロと割り出す。その頃、師匠の高橋はオランダから取り寄せた最新の天文書を翻訳していた。その中に発見した緯度一度の記述は、「28.2里」。忠敬の計算と寸分違わず一致していた。この数値は、現在の計測値と0.2%しか誤差が無いという、驚くべき正確さだった。

そして、忠敬に“日本全図を作成せよ”という幕命が下る。地図の出来を認めた幕府は忠敬を「天文方手伝」として幕臣に登用し、日本全図作成を幕府直轄事業とすることを決めたのだ。

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天命

思いも寄らぬ幕命を受けた忠敬は、娘に宛てた手紙に決意を書き残している。

幼き頃より高名出世を好んだが、親の命にて伊能家へ入り
以後は好きな学文も止め、産業を第一としてきた。
古今にない日本国中の測量という御用を仰付けられ、
これぞ実に、天命といわんか。

60歳になろうとしていた忠敬は、まだ見ぬ西日本へ向かって歩き出した。しかし、数々の難所が待ち受けていた。瀬戸内海に浮かぶ500の島々は、測量隊を驚愕させる。それでも忠敬は妥協を許さず、海からも縄を張り、正確な島々の形を記録していった。無理を重ねる忠敬の老体は悲鳴をあげ、島根・松江では熱病「おこり」が発症し、宿に三ヶ月も伏せた。3年の予定だった西日本の測量だが、気付けば11年の歳月が流れていた。

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もう歯は一つきりになり、時々痛み、奈良漬も食べ兼ねる。
老年のため、この頃は寒気が身に染みる。
随分用心して、衣服も沢山着、食事も気を付けている。

(娘 妙薫に宛てた手紙)

天命をやり遂げるという強い意志で、日本全土を歩ききった忠敬。
測量を終えたのは文化13年(1816)、開始から17年が経ち、忠敬は72歳になっていた。総測量距離はおよそ4万キロ、奇しくも忠敬が追い求めた“地球1周分”に到達していた。

文政4年(1821)7月、ついに日本全図が江戸城大広間で披露される。正確な日本の姿が初めて明らかになった瞬間だった。「大日本沿海輿地全図」は、「江戸後期最大の国家事業」となった。しかし、その場に忠敬の姿は無かった。遡ること3年前、地図作成の半ばで、72歳の生涯を終えていたのだ。ところが、忠敬の墓にはこう刻まれている。「文政4年7月に日本地図を完成させ、その後、9月4日に亡くなった」。忠敬の意志を引き継いだ弟子たちがその喪を秘し、日本全図の作成という偉業を忠敬のものとして発表したのだった。

六平のひとり言

地図って夢があるよね。行ったことのない所に連れて行ってくれる。
鎖国の日本において、伊能の地図は人々に夢を与えたに違いない。
しかも彼は、50を過ぎて、自分の脚一つで「日本全土の地図」という事業に挑んだ。
その人生そのものがまさに今の僕たちに夢を与えてくれる。
意地、根気、プライド、そして努力。
すべてにおいて見習うべき、本当の偉人だね。

佐藤渚の感動列伝

ひし形のような北海道に、南北に長い本州、それに沿うように九州と四国。周りには無数の小島。今では当たり前のような日本の形を、電車も飛行機もない時代に、老いてから歩いて追い求めるその熱き精神には脱帽です。魂が燃え尽きるその日まで、何かに没頭して生きるって素敵ですね。