#02 2014年4月18日(金)放送 「侘び茶」で天下をとった男 千利休

千利休
(写真:表千家不審菴)

今回の列伝は「千利休」。時の権力者と結びつくことで、茶の湯の世界で頭角をあらわした利休は自分の美学に基づき、豪華な茶の湯ではなく、削ぎ落とされた美の境地「詫び茶」を完成させる。しかし、権力の中枢にまで上り詰めた利休は、次第に天下人秀吉と美意識を巡る対立を深めていく・・・

ゲスト

ゲスト 歴史小説家
火坂雅志
ゲスト 古美術鑑定家
中島誠之助
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長谷川等伯筆・千利休肖像(写真:表千家不審菴)

1582年、本能寺の変から11日後、京都・山崎で天下分け目の決戦が幕を開けた。信長を下剋上により葬った明智光秀と、信長の家臣・羽柴秀吉との合戦、世に言う「天王山の戦い」である。その大勝負の陣中に、俄かに建てられた小さな茶室。そこで秀吉を待っていた男こそ、茶人・千利休だった。静寂に包まれた茶室。利休のたてた茶が、高揚する秀吉の精神を和らげる。戦に勝利し、天下人への道を駆け上がる秀吉に伴い、茶人としては異例の権力を手にすることになる利休。しかし、そんな利休に秀吉から切腹の命が下される。

たった二畳の茶室に利休が切り拓いた「不足の美」の世界、そして、その後の日本の美意識を塗り替えた、利休至高の漆黒の茶碗とは?戦国の世に散った美の革命児、千利休の、波乱に満ちた人生に迫ります!

天賦の美意識

今から500年前の大阪・堺。戦国の世にあって、鉄砲などの武器貿易でにぎわった堺は、日本唯一の自治都市として繁栄を極めていた。千利休は、そんな堺で魚問屋を営む商家の跡継ぎとして生まれ、茶の湯とも身近に接していた。そんな若き日の利休の、卓越した美意識を物語るエピソードがある。19歳の時、武野紹鷗のもとを訪れた利休は、紹鷗より「庭掃除」を命じられる。ところが庭に行ってみると、既に掃除がなされたあとで、塵ひとつ落ちていない。利休の反応に目を凝らす紹鷗。しかし利休はこともなげに庭へと入り、一本の木を揺らし始めた。
1枚、2枚と木の葉が落ちる。それまで殺風景だった庭に、時の流れがよみがえり、哀愁と叙情が滲みだした。侘び茶の根底にあるのは・・・「不足の美」。不完全なものに美を認める心。完璧なものは、それ以上の変化を拒むが、「不足の美」には失われてゆくものの悲しさと愛おしさがある。ただならぬ利休の才気を、師の紹鷗はいち早く目撃することとなったのだ。

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長興寺蔵(写真:豊田市郷土資料館)

戦国の覇者・信長との出会い

50代となった利休に、大きな転機がやってくる。天下統一へ破竹の勢いで突き進む織田信長が上洛し、自治都市・堺の支配に乗り出したのだ。最大の貿易都市で、多くの武器を扱う堺を手中に治めることは、勢力拡大への大きな足掛かりだった。信長はまず莫大な財をはたいて、町人や公家から高価な名品を次々に買い集め、それらを家臣への恩給として領地の代わりに分け与えた。いわゆる「茶の湯御政道」である。
「茶の湯」は、一気に武将たちのステータスシンボルとなり、大広間で、高価な茶器を使った茶会を行うことが、一流の武将の証となった。そんな信長に、利休は軍事物資の提供と茶の湯の執務によって接近し、次第に織田政権の権力中枢に潜り込んでゆく。

天下人・秀吉との出会いと別れ

そんな信長が本能寺の変で、明智光秀に討たれると、信長の臣下であった秀吉と、信長の茶頭を務めていた利休は、どちらからともなく接近し始める。秀吉は、主君信長に仕えていた利休を重用することで、権威継承の正当性を誇示しようとしたのに対し、利休の方でも、秀吉という新たな船に飛び乗ることが、天下への近道だと“目利き”が働いたのかもしれない。
その後、秀吉と共に天下統一への階段を駆け上ることになった利休だが、その蜜月も長くは続かなかった。「黄金の茶室」や「朱色の碗」を好んだ天下人・秀吉の豪奢な美意識と、「土壁の茶室」、そして「歪んだ黒樂茶碗」を愛した利休の清貧の美学とが衝突するようになったのである。
またそれと同時に、それまで茶の湯の密談により執り行われてきたまつりごとが、石田三成ら武断派の家臣による官僚的な政治体制へとシフトし始めていた。戦国の世で花ひらいた茶の湯という文化も、天下統一が果たされた今、政権転覆を企む密室として危険視されるようになったのである。

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豊臣秀吉肖像(写真:宇和島伊達文化保存会)
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黄金の茶室(MOA美術館)
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(写真:大徳寺瑞峯院 平成待庵)

死をもって「侘び茶」を生み出した利休

天正19(1591)年、ついに秀吉は、利休に蟄居を命じることになる。罪状については諸説あるが、どれもほとんど言いがかりに近いものであった。秀吉の妻や家臣が、利休の助命を秀吉に訴えるものの、肝心の利休がそれに応じない。乱世が終わり、天下泰平がなされた今、利休は一人の武人として、自分の死に場所を探し求めていたのかもしれない。秀吉もそんな利休の覚悟を感じ取っていた。政治システムとしての茶の湯が終焉を迎えるとしても、利休が切り拓いた美意識を、何とか後世に伝える術はないか・・・。

そしてついに利休は、“町人出身者”としては異例の「切腹」を命じられることになる。利休切腹の朝、秀吉はたった一人の茶人のために3千の軍勢で屋敷を取り囲ませた。利休の死によって完成する「侘び茶」の、ドラマチックな誕生秘話。それは茶の湯の師である利休に、秀吉が捧げた最後のもてなしだったのかもしれない。

六平のひとり言

利休という人は、”ばけもの”みたいな人だね。
実際、180センチ近い大柄だったというし、
身体的にも、精神的にも、美を見る目、政治力、死に方に至るまで、
すべてにおいて、べらぼうにすごい人=巨人だね。