THEナンバー2

毎週木曜よる10時オンエア

綺羅星の如く、日本史を彩る名将たち。 私たちがよく知る歴史の表舞台、 その陰には常に「ナンバー2」の存在がありました。いわばそれはもうひとつの「歴史物語」。

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徳川慶喜

ゲスト: 童門冬二

徳川慶喜が15代将軍となったのは慶応2年。時代は大きなうねりを上げ変わろうとしていた。開国、幕府の弱体化、尊皇攘夷。揺れ動く幕末の日本。江戸幕府史上最も悩んだ将軍であろう慶喜は14代将軍、家茂のナンバー2から最後のナンバー1へ。徳川の世を自ら終わらせた男、慶喜には2つの謎があります。ひとつは、大政奉還。260年続いた体制を自ら朝廷に返上したこと。もう一つは勝てるはずだった戊辰戦争の放棄。
徳川慶喜は一体、どのような新しい日本の形を描いていたのでしょうか。

ナンバー2からナンバー1へ

慶喜は進んで自ら将軍への道を歩み始めたのではありませんでした。慶喜の父、斉昭が慶喜の幼少の頃から水戸学を学ばせ、熱心に息子を将軍へのレールに導いたのでした。
慶喜は、将軍家茂の後見職につき、ナンバー2としての力量を発揮。しかしここで大きな問題が降りかかります。西洋列強に開国を迫られ、同時に天皇とは攘夷の約束をしていた幕府。慶喜は攘夷実行を先延ばしにするための工作をしていた矢先、幕府の許可を得ず、長州藩が暴走。アメリカ商船に砲撃をしかけ、下関戦争が勃発します。長州藩の暴走は金門の変へと発展。慶喜は幕府のナンバー2として活躍。御所守備軍の指揮をとりました。第二次長州征伐の途中、家茂が逝去。慶喜は終戦工作を急ぎ、勝海舟を動かして停戦交渉を成立させます。しかしこの時、慶喜自身も動き、勝は面目を潰されたと、軍艦奉行の辞表を提出。慶喜の「人に対する不信感・待てない性格」がそうさせたのです。慶応2年、15代将軍慶喜が誕生します。慶喜の新しい幕府づくりが始まります。

幕府の立て直し

慶喜がこの時に頼りにした男が小栗上野介。フランスと600万ドルの借款契約を成立させます。しかしこれがご破算。幕府の立て直しは勢いを失います。この時再び不幸が訪れます。孝明天皇がこの世を去り、倒幕派の勢いが増し、幕府は窮地に追い込まれます。
そこで慶喜が革命的な一手を打ちます。「大政奉還」。政権を朝廷に返すこと。しかし、密かに慶喜は自分のそれまでの行いから、朝廷は自分に政権をまかせるだろうと考えていたのでした。しかし、事態は一変。岩倉の王政復古の大号令。岩倉が操り天皇に政権を握らせようとしたのです。慶喜はあきらめず、外国勢力を集め、自分が日本の主権者とアピールします。大坂に旧幕府、京都に新政府軍が成立。にらみ合いが始まります。そこへ今まで存在などなかった「錦の御旗」が翻ります。ここで水戸学を学び続けていた慶喜が動揺、朝廷にはたてつきたくないと、大坂城を抜けだしたのです。小栗は徹底抗戦を主張するものの慶喜は小栗を罷免。「恭順」の決断を下します。それは日本を守るためにあえて戦わないという選択だったのかもしれません。ここで慶喜は再び勝海舟を呼び寄せ今度こそはと全面委任します。勝海舟は江戸城を無血開城に導き、慶喜は将軍の椅子を滑り落ちます。
慶喜が将軍として生きることをやめた時、初めて自分の意志で選びとる人生が始まります。それは明治を生きる初めての「市民」だったのではないでしょうか。



時代が明治へとうつり、慶喜の謹慎が解除された後、彼は鷹狩、投網、狩猟、油彩画、写真などに没頭し、静岡で約三十年もの間、徳川宗家の隠居として暮らしたそうです。特に油彩画と写真は、幕臣で油彩画や写真の技術のあった中島仰山や、静岡の写真師・徳田孝吉などに手ほどきをうけていたそうです。(静岡市美術館のHPより)

かつて静岡市美術館でそれらの一部が展示されたことがあったようで、インターネットにて確認することができます。

油彩画に写真…私の感想ですが…どちらも本当にお見事!あの時代にここまでの腕前だなんて本当にビックリです!!!

ツボだったのは、慶喜が自分の愛猫を撮影していたということ!

洋間と思われる部屋に座布団が敷いてあって、そのうえに、首にフリフリの襟巻のようなものをつけられたネコちゃんがちょこんと座っています。

その子の横にはネコちゃんようの小さな鞠。

白っぽいネコちゃんは、ほんの少しばかりぽっちゃりしているように見受けられました。

写真から、慶喜のそのネコちゃんへの愛情が伝わってきました。もういとおしくて堪らなかったのでしょうね〜。

飼っているペットを「もちろん家族の一員として大切にしている!」という方も今の世の中大変多いと思います。その感覚は現代の私たちも、当時の慶喜も全く同じということなのでしょうね。

ひとりの人間としての慶喜の姿を写真から垣間見た気がしました。