#25 美が生まれるとき 2014年3月26日(水)放送

総集編
ゲスト

作曲家 千住 明

ゲスト

小説家 高橋 源一郎

美には法則があるのか?

その人生をかけて、美を極めようとした巨匠たち。

ルネサンスのイタリア。芸術の貴公子といわれたラファエロは、自らの恋愛遍歴を通して、女性の美しさを脳裡に刻み込み、その美を作品に昇華させました。17世紀オランダ、光の画家と言われたフェルメール。やわらかな光に包まれた世界の中に静謐な日常の美を見いだしました。そして、日本が近代化を遂げた明治の時代に、小説の新しい境地を開いた森鴎外。「舞姫」に描かれたのは、個人の恋愛と、立身出世との狭間で苦しみもがく、エリートの心の葛藤でした。

音楽の世界でも、その美の法則を極めようとした巨匠がいました。“楽聖”ベートーヴェンです。その最高の傑作、交響曲第九番は、綿密に計算されつくされたものでした。楽器ではなく、人間の声の響きこそが、最もすばらしいとうたいあげるベートーヴェン。そこには、人々を感動へと導く徹底した計算があったのです。

数多の巨匠たちが生み出した美学。そこに、巨匠たちが挑んだ、不滅の美の法則は存在するのでしょうか?

日本の美

巨匠たちが追い求めた美の中に、『日本』があります。

19世紀後半のフランス。パリで開催された万国博覧会に、鎖国が解かれた日本から、多くの美術品が出品され、浮世絵をはじめとする異国情緒あふれる日本の美は、驚きをもって迎えられました。そしてその衝撃は、若き画家たちに、新たな美を誕生させます。西洋の美と日本の美が融合したジャポニスムです。印象派の巨匠モネは、パリ郊外のジヴェルニーにアトリエを構えるとともに、日本美術を買い漁り、膨大なコレクションを築きます。モネは浮世絵から着想を得て、『自然の情緒』を描こうとします。そのために広大な敷地を日本風の庭園に改造。この庭でモネは、ライフワークとなる“睡蓮の連作”を生み出すことになるのです。季節の変化や光の移ろい。とどまることのないその情感をいかにして描くか。ジャポニスムが呼び起こしたモネの感性は、絵画の新たな美となって結実したのです。

音楽の世界でも、イタリアオペラ界の至宝、プッチーニの代表作の一つ「蝶々夫人」では、愛を信じて待ち続けるヒロインの一途な姿を日本女性に託して描きました。そしてもちろん日本にも、『日本の美』を追求した巨匠たちがいます。明治時代、西洋音楽をもちいて日本の歌を創造した山田耕筰。その代表曲「からたちの花」。実は、この曲には、山田耕筰が長年考え続けた日本独自の歌の作曲法が隠れています。日本語を大切に考えた山田耕作は、言葉をそのままメロディーに置き換えようとしたのです。映画「雨月物語」で、日本の能に発想を得、幽玄の映像美を生み出した溝口健二。人間の奥底に潜む静かな恐怖を描き出し、世界から絶賛されました。巨匠たちがそれぞれにとらえ、表現した『日本の美』。そこには、どんな魅力があるのでしょうか。

日本の俳句

言葉の世界にも日本独自の美があります。

“古池や かわずとびこむ 水の音”
五七五、わずか十七文字の中に、四季折々の美と心情を映し出す、俳句。この俳句の礎を築き、数々の傑作を残したのが、松尾芭蕉です。俳句を芸術にまで到達させた、『おくのほそ道』。その十七文字の中に、人の営みの儚さと、雄大な自然、悠久の時の流れが描かれています。

“荒海や 佐渡によこたふ 天河”
そこに込められた美学は「不易流行」。永遠に変わらないものと常に変わりゆくもの。それが同時にこの世にあることを詠む。それこそが、風雅の姿、芭蕉が見出した五七五の境地でした。

ゴッホと宮沢賢治

「美」を生み出すために生涯をかけた創造者たち。
芸術家を創作に駆り立てるものとは何なのでしょうか?その手がかりとなる2人の芸術家がいます。宮沢賢治とフィンセント・ファン・ゴッホです。文学の世界と絵画の世界。国もジャンルも異なる2人ですが、なぜかその人生には、共通点が多いのです。1853年、オランダの牧師の家に生まれ、宗教家を目指していたゴッホ。およそ半世紀後、1896年、岩手県に生まれた宮沢賢治。熱心な法華経の信者でもありました。何より2人が似ているのは、生きている内に、その作品が売れなかったこと。ゴッホが生前売れた絵はたった一枚。宮沢賢治もまた、生前に刊行された作品はほとんどありません。誰からも認められない彼らを支えた唯一の存在は、ゴッホは弟のテオであり、賢治は妹のトシ。やがて二人の芸術家は、それぞれ理想郷を夢見るようになります。

ゴッホは、芸術家が集うユートピアをつくろうと南フランス・アルルへ。賢治は、自らの心の内に「イーハトーヴ」を。そして2人は、のちの世に評価される数々の傑作を残して、奇しくも37歳という同じ年齢でこの世を去るのです。生涯、その作品を認められることのなかった2人の巨匠。それでも彼らが創造しつづけることができたのはいったいなぜなのか。芸術家とは何か、その存在に迫ります。

日比野克彦

日比野の見方「わたしのなか」

日比野の見方 いつもは右利きなんだけど、今日は左手で描きました。しかも文字で。「わたしのなか」。左手で書くと、どこかねじれていたり鏡文字になったりしている。自分の中から出てくるものなのに何か別のものになって出てきているようで、でもその変容というのは、「他者からみた自分」や「自分からみた他者」というような意識の変容にも似ていて、その意識の繰り返しの中から美が生まれてくるような。そういった変容も自分の中に流れている時間の中でとらえていくと、実は表面的なところでは美というのはそんな変容しないんじゃないかと思っているところがあります。それでいて終着点も定点もないし、美ってそういうものなのかなと。自分の意識とは無関係のところから出る「わたしのなか」に、ひとつの美のかたちがあるのかもしれません。

小川知子

小川知子が見た“巨匠たちの輝き”

小説家の高橋源一郎さん、作曲家の千住明さん、そして日比野克彦さん。この異分野のアーティストが「美が生まれる時」について語る、というとても贅沢なトークでした。創作に対する気持ちはそれぞれ、ですが「自分のやりたいことを突き詰めていける」という性質は共通していました。個性的でありながら柔軟な考え方ができる、ということも。毎回「日比野の見方」が生まれる瞬間に立ち会えたことが 私にとっては楽しい時間でした。同じ話を聞いているのに日比野さんから生み出される絵は、どれも新鮮な驚きでした。芸術家のものの見方はやっぱり一味違いますね〜。短い間でしたが「巨匠たちの輝き」をご覧頂き、ありがとうございました!