原爆の夏 遠い日の少年~元米軍カメラマンが心奪われた一瞬の出会い~

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原爆の夏 遠い日の少年~元米軍カメラマンが心奪われた一瞬の出会い~

□第21回 ATP賞2004 総務大臣賞
□日本民間放送連盟賞 テレビ報道部門賞
□平成16年度(第59回)文化庁芸術祭 テレビ部門優秀賞

戦後日本の荒廃を撮影した元米軍カメラマンが、写真に残る少年を探す旅に出ました…。

番組内容

番組のみどころ

原爆の日の夏、若きジョー・オダネル軍曹(アメリカ空爆調査団・公式カメラマン)は、廃墟の長崎に立っていました。彼はもう一台の私用のカメラを携えていました。そして焼け跡にはいつくばって生きる日本人を、ファインダーの向こうに見ていました…。その数は数千コマにのぼります。
あの日から58年。老カメラマンは、その時写真に残した一人の少年を探しに長崎・広島へと旅立ちます。自らも間接原爆症に悩まされながらも、ネガに焼きついた終戦の日の、あの少年に出会うために。死んだ弟を背負い、焼き場の順番を待っていた少年に…。

番組の内容

■カメラマン、ジョー・オダネルとは?
アメリカ南部テネシー州ナッシュビルに一人の老人が暮らしている。ジョー・オダネル、81歳。彼はアメリカのイラクへの駐留、日本の自衛隊のイラク派遣、そして広島に原爆を投下したエノラ・ゲイのスミソニアン博物館での一般公開が始まるという殺伐としたニュースを眺めていた。
かつてホワイトハウスのカメラマンとして、トルーマンからジョンソンまで4代にわたる大統領の元で写真を撮影。なかでもジャクリーンが暗殺されたケネディの棺の前で敬礼する写真は世界中に配信された。しかし、ジョーは1945年9月、日本の敗戦後、占領軍の海兵隊のカメラマンとして佐世保に上陸。およそ7ヶ月間、長崎や広島を歩き、日本と日本人の惨状を目の当たりにしていた。

■「遠い日の少年」はどこへ…オダネル来日
一枚の写真をジョーはリビングに飾っている。12歳くらいの少年が頭をたれた弟を背負って直立不動で立っている。少年は死んだ弟を荼毘に付すために順番を待っていた。
「私たちがこうしてしまったのか…」
もし私が少年に声をかけたら、少年は崩れ落ちてしまうだろう。彼は必死にこの悲しみに耐えていたのが分かった。ジョーが撮影したたくさんの写真には、荒廃した戦後すぐの日本の姿が焼きついている。あの日、日本人は何を考え、その後どうしたのか…。ジョーはこの「遠い日の少年」の行方を捜したいと日本へ旅たった。

■少年、少女たちとの感動の再会
海兵隊が上陸した佐世保に立つジョー。しかし、年齢とともに記憶は薄れつつある。しかし、彼が撮影した写真は敗戦後の姿を如実に物語る。「釣りざおの少年」は米兵と釣り竿を持った少年の写真。その少年が見つかった。西依政光さん。佐世保は終戦前の6月に空襲を受け、廃墟と化していた。西依さんはずっと防空壕で生活した。写真を撮られた記憶はもちろんない。ジョーは写真を西依さんに手渡した。「あの日の自分が確かにいたんだ…」、戦災で一家の写真は一枚もなかった。
ジョーは福岡で、ある学校の授業風景を撮影した。写真に写っていた少女の名札から学校が判明。その生徒を訪ねた。旧奈良屋国民学校。いまは統合され、博多小学校となっている。58年ぶりの再会。生徒たちには写真を撮られた記憶はなかった。窓ガラスもなく、裸足の子供たち。ただ、一心に先生を注視している姿がある。福岡大空襲で一家離散の子供もいた。死体の山をつぶらな瞳で見た子供たち。教育に飢えていた。ジョーは再会のしるしに、また精一杯の喜びの表現として、アメリカ製のチョコレートとガムを配った。

「焼き場に立つ少年」の写真を手に、ジョーは長崎へ。爆心地を撮影した数少ないカメラマンだった。当時、全身やけどの少年を撮影した。谷口稜曄(すみてる)さん。郵便局員だった16歳の谷口さんは、電報を配達中に被爆。焼けただれた体で救助を求め、以後一年以上にわたってアメリカの被爆研究の対象者となった。今、谷口さんは反核のメッセージをボランティアで発し続けている。ジョーはこれまで何度か日本で写真展を行い、谷口さんが無事であることを知り、以後交流が続いていた。互いの現況を話し合う二人だった。


■浦上天主堂での思い出
ジョーには長崎で是非訪ねたい場所があった。浦上天主堂。原爆で一瞬にして崩れ落ちた聖地を目にしたジョーは、悲嘆にくれた。
「鳥も、猫も、犬もいなかった。私は、天主堂の壁に身を寄せて一晩を過ごした。聖人の頭部が落ちていた。何を見ていらっしゃるのですかと尋ねたが、もちろん答えはなかった。そして私は丘の上から改めて長崎の街を眺めた。そこは地球とは思えなかった。音もしない世界、ああ私たちがこうしてしまったのだ。」
ジョーはアメリカの教会で小さな写真展を開いた。過去、原爆実験の街で、長崎の写真を手に反核のアピールをしたこともあるジョーは、たとえ小さくてもいいと牧師に働きかけた。誰もが、ジョーはホワイトハウスのカメラマンだと思っていた。パネルには廃墟の街、少年や少女たちの姿。中でも多くの人々が心打たれたのは、「焼き場の少年」だった。幼い子供を抱えた女性は涙ながらに答える。
「亡くなった弟をこんなにも愛している姿を見ると、祖父母の世代が何をしたのかを思い出させます」
ナッシュビルの静かな午後、テレビでは今日もイラク・アフガンのニュースが流れている。


ジョー・オダネルのコメント

佐世保から長崎に入った私は小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男たちが目に入りました。男たちは60センチほどの深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広場で遊んでいる子供たちの姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意思が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに5分か10分も立っていたのでしょうか。白いマスクの男たちがおもむろに近づき、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気づいたのは、少年があまりキツくかみ締めているため、唇の血は流れることもなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去って行きました…。

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