「江戸のススメ」検定問題

2012年5月28日 放送更新版

問一

江戸時代に広まった麺状の蕎麦について記された文献で最古のものはどこにあったでしょう?

い)定勝寺(長野県)

ろ)深大寺(東京都)

は)日光山輪王寺(栃木県)

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【回答】い)定勝寺(長野県)
【解説】

天正2年(1590年)に長野県大桑村の古刹・定勝寺(じょうしょうじ)の仏殿修理がなされた際の寄進記録が「ソハキリ(蕎麦切)」について書かれた最も古い文献です。蕎麦の歴史は古く、奈良時代から食されていました。「蕎麦の実雑炊」、「そばがき」の方が古くからあったようです。現在のような細長い麺が、いつどこで生まれたかははっきりしません。

問二

享保から天明まで、江戸の蕎麦文化をリードした道光庵のあった称往院は、現在どこにあるでしょう?

い)浅草(台東区)

ろ)烏山(世田谷区)

は)深大寺元町(調布市)

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【回答】ろ)烏山(世田谷区)
【解説】

神田から、明暦の大火のため浅草へ移転された称往院は、関東大震災を機に現在の世田谷区北烏山へ移転しました。現在も「不許蕎麦入境内」と蕎麦禁制の碑が建っています。当時、蕎麦のため庵主の本来の行が疎かになったことを怒った称往院の住職により建てられたといいます。今も蕎麦屋の屋号に庵と付くものが多いのは、称往院・道光庵を始めとしてお寺で蕎麦が振舞われたことに由来するようです。

問三

玉川上水は、承応2年(1653年)、約8ヶ月の工期で43km(素掘)の工事が完成しました。当時、どこまで届いていたでしょう?

い)調布市深大寺

ろ)淀橋(現在の西新宿)

は)四谷大木戸(現在の四谷4丁目)

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【回答】は)四谷大木戸(現在の四谷4丁目)
【解説】

多摩川の中流・羽村の取水地から四谷大木戸まで玉川上水の工事は、承応2年4月に着工し、同年11月に完成しました。翌年6月には暗渠で虎ノ門まで達し、排水区域を広げていきました。江戸の下町では、京橋川あたりを境として、北が神田上水、南が玉川上水の排水区域でした。

問四

江戸時代、看板に「八里半」と書かれた店がありました。何を売っていたでしょう?

い)栗饅頭

ろ)焼き芋

は)(ヤリ)イカ焼き

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【回答】ろ)焼き芋
【解説】

「八里半」という看板を掲げている焼き芋屋がありました。その美味しさを、数字遊びで「栗(九里)に近い」と表現していたということです。

問五

赤穂浪士が討ち入り前に食べた蕎麦屋の名は?

い)亀田屋

ろ)池田屋

は)松島屋

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【回答】い)亀田屋
【解説】

赤穂四十七士の中で唯一切腹を免れた寺坂信行が書き残した書物(「寺坂信行自記」)によると、赤穂浪士の一部が討入り前に、両国橋向川岸町池田屋で蕎麦を食べたということです。全員がそば屋に集合したというのは後に生まれた虚説で、実際に立ち寄ったのは6~7人だったと記されています。

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