「江戸のススメ」検定問題

2012年5月21日 放送更新版

問一

幕府と藩の公的連絡のためなどに諸藩が江戸の藩邸に設けた役職の名は?

い)留守居役

ろ)江戸詰

は)浅黄裏

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【回答】い)留守居役
【解説】

幕府と藩との間の公的連絡や、他藩の留守居役との連絡や交渉を任務として江戸の藩邸に設けられた役職です。江戸の勤番には、参勤交代の江戸到着後ただちに帰国する「立ち帰り」、そのまま江戸に留まって藩主に従って帰る「江戸詰」と、江戸邸に一定期間常住する「定府」がありますが、留守居役は「定府」なので、単身赴任とは限らず妻子も江戸に住まわせることもできました。

問二

大名行列の先頭には「お先三品」と称される部隊が配置されました。鉄砲・弓ともう一つは何?

い)

ろ)

は)大砲

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【回答】ろ)槍(長柄)
【解説】

大名行列では、鉄砲・弓・長柄の各々で編成した部隊が露払いの役を担いました。長柄とは長い槍のことです。大名行列は、常に道中を「下ニイ」(「下にいまっせえ」)の警蹕の声と共に、整然と行進していた訳ではありません。平時は隊伍を崩していても、大きな宿場、城下・関所などに差し掛かったときには「行列を建て」て整然とした隊形で通過していたといいます。

問三

参勤交代を制度として確立させた将軍は?

い)家康

ろ)秀忠

は)家光

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【回答】は)家光
【解説】

関ヶ原の合戦前後から、自主的に妻子を江戸に住まわせる大名が現れました。大坂夏の陣の戦後処理で伏見城に諸大名を集めた際、将軍秀忠が前将軍家康と共に最初の「武家諸法度」を発布して「諸大名参勤作法の事」を示しましたが、その時点では、制度としては確立していませんでした。その後、三代家光の時代に「武家諸法度」(寛永令・寛永12年)発布され、大名が役儀・奉公として江戸に参勤することが正式に制度化されました。

問四

例外的に三年に一度の参勤でよいと認められていた大名の名は?

い)水戸・徳川家

ろ)対馬・宗氏

は)蝦夷・松前氏

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【回答】ろ)対馬・宗氏
【解説】

参勤交代制度は、常に江戸詰め(定府)の水戸藩と老中など役付大名を除いて、全ての大名に義務化されました。外様大名は、在府在国1年が原則でしたが、遠隔地である対馬の宗氏は三年に一度、蝦夷地の松前家は五年に一度の参勤とされていました。

問五

「享保の改革」で参勤交代制度が緩和されましたが、幕府は大名に、代わりとして何を課したでしょう?

い)上米(石高に応じた米の上納)

ろ)妻子の江戸城内(証人屋敷)居住

は)江戸城改築の天下普請(土木工事)

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【回答】い)上米(石高に応じた米の上納)
【解説】

享保7(1722)年、幕府は大名の在府年限を半年、在国を1年半に変更する際、各々の大名に対しては、高一万石に対して100石の上米をさせて財政窮乏を凌ぎました。3年もしくは5年に1回の参勤とする案も検討されたが、最終的に在府期間を短くすることで落ち着いたようです。しかし、制度の緩和は幕藩体制の根幹を揺るがすものとして、8年後には、もとの制度(1年交代)に戻されました。

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