JNNルポルタージュ
#59 「ラオスから来た家族、20年目のいま…」(’11年02月28日放送)
1991年9月、ラオス難民の一家が日本の土を踏んだ。父と母にとっては、幼い子どもたちを抱えながら、言葉も文化も生活習慣も異なる未知の国でのゼロからのスタートだった。
当時、日本政府は、ラオス、ベトナム、カンボジアからインドシナ難民の定住を受け入れ、神奈川県や兵庫県にあった「定住促進センター」で半年ほど研修した後、就職の斡旋を経て社会に送り出していた。
一家に初めて出会ったのは 92年1月、神奈川県の「大和定住促進センター」で日本語研修や生活ガイダンスを受けていた時だった。そして2年後、研修を終えて仕事に就き、新たな一歩を踏み出した姿を追跡取材した。あの一家はいま、どうしているだろうか。
2010年1月、私たちは再び一家の取材を始めた。父と母は、いまも家族のために懸命に働いている。長女と二女は既に結婚して独立、長男も就職していた。初めて出会った時、まだ生後6か月だった三女は大学受験に挑んでいた。
1年間、そんな家族の姿を追った。職場で信頼を得て真剣に仕事に向き合う父、朝まだ暗いうちから働きに出る母、在日ラオス人が新年を祝う集い、長女の出産、三女の進学、年に1度家族みんながそろった日…。
彼らの日常から浮かび上がってきた、両親の子どもへの思い、そして子どもたちの両親への思い。日本で暮らして20年になる一家の姿を通して、家族とは何か、共生とは何かを問う。
#58 「私が罪を犯す理由」(’11年02月14日放送)
400人余りを収容する沖縄刑務所。規律に従い行動する受刑者の傍ら、集団と切り離された受刑者たちがいる。高齢受刑者や知的障がいを抱えた受刑者たちだ。その中には、罪を重ねる「累犯者」が少なくない。出所後、身寄りも福祉の支えもなく、孤立した結果、生きるため、あるいは自制できずに罪を犯し、刑務所へ戻ってくるのだ。
罪を犯した弱者たちが、出所後、福祉の支援を受けられるよう、刑務所と福祉の懸け橋となる「地域生活定着支援センター」の設置が、全国で始まった。先駆的役割を果たす長崎県のセンターでは、罪を償い出てきた弱者を地域の福祉で支えようと、関係者に協力を呼びかけ、試行錯誤を重ねている。受け皿探しなど難航する事も多いが、職員の伊豆丸剛史さん(34)は、「これまで雑に扱われてきた人たちだからこそ、きめ細かい支援を届けたい」と強調する。
一方、沖縄では、依然、受け皿が整わず、ボランティア団体が、出所後の行き場がない弱者を受け入れている現実がある。十分な支援体制がない中、目を離したすきに、再び罪を犯し、刑務所に戻る知的障がい者も少なくない。罪を犯した弱者たちは、今、どのような環境にさらされているのか。
#57 「綺麗になった街で 新宿‘10」(’11年01月30日放送)
新宿駅の東西を結ぶ循環バス。
百貨店、都庁、ホテル・・・、車窓には「綺麗な街」が映る。
ふと、新宿の街を見回せば、地下通路には「しゃがむことを禁止する」警告文が貼られ、公園は寝起き禁止となり、街ぐるみで清掃作業が行われている。
そして、新宿のホームレス人口は、「行政のデータ上」、激減している。
一方で、循環バスのルートから外れた場所、バスが背を向けた先を歩けば、もうひとつの「新宿の姿」が見えてくる。
移動し続ける野宿者。
場所を移した炊き出し。
そして、その炊き出しに並ぶ野宿者の、急激な増加。
「きれいになった」街の裏側、「見えなくなった場所」で起きていること・・・。
いま、ルミネから立ち退きを迫られている「新宿駅最後の」個人店、カフェBERGの風景も交え、循環バスの窓からは見えない新宿を歩く。
#56 「故郷の森林が消える」(’11年01月16日放送)
ナラやシイ、カシ類が集団で枯れる「ナラ枯れ」。カシノナガキクイムシが幹などに寄生し、体内に共生しているナラ菌が植え付けられる事で、木が水を吸いあげられなくなり枯れてしまう被害だ。特にミズナラの被害が著しい。ミズナラはドングリを実らせる身近な木としても知られ、子ども達にも親しまれてきた。
いま、ナラ枯れの被害が日本海側から急速に拡大し、2010年は29の都道府県に及んでいる。林野庁のデータを基に換算すると、過去数年間で日本の数百万本の森林が消えたことになる。これらの森林は数十年から数百年かけて形成されたものだ。それが、わずかの期間で枯れ果ててしまうのである。被害は日本海側から太平洋側へ、低地から高地へと広がっている。
被害拡大の原因は何か、二つの推測がある。
ひとつは、人と森との関係の変化である。山村人口の減少により、林業が衰退し、人と森林との関わりが希薄になった事だ。
もう一つは、温暖化だ。気温の上昇と供に、これまで生息できなかった地域でもカシノナガキクイムシの繁殖が可能となった可能性がある。
実態と原因を追って、4年間にわたってナラ枯れ問題を取材した。そこで見えてきたものとは何か。深刻な被害実態、その対策、方法、人間と自然との関わりについて考える。
#55 「ミャンマー少数民族の“生きる道”」(’10年12月26日放送)
先月、20年ぶりの総選挙が行われたミャンマー。軍事政権が民主化勢力を押さえ込み翼賛政党を大勝させた。選挙直後のアウン・サン・スー・チーさん解放は、自信を深めた軍政側の余裕にすら映る。
一方で軍事政権には力で押さえ込むことのできないやっかいな相手がいる。その数134ともいわれるさまざまな少数民族だ。強力な武装組織を持つ民族も多く、辺境部に割拠して軍政と対峙してきた。軍政の次なる標的として少数民族に対する攻勢を強める可能性がある。
徹底的に海外メディアの入国を制限する軍政下にあって、少数民族地域に取材に入るのは困難を極めるが、今回、JNNのカメラは特別に許可を得て3つの少数民族を取材することができた。インダー族、カヤー族、パオ族。三者三様、独特の民族衣装や生活様式とともに見えてくるのは、軍事政権の支配に対するしたたかな対応。自分たちの実力と、軍政側から引き出せる経済的利益をシビアに天秤にかける。敢えて支配を受け入れることで平穏な生活を守る者、停戦を維持しながら自治の拡大を要求する者。それぞれの方法で"生きる道"を模索している。
軍政側も、それぞれの少数民族に対し、硬軟織り交ぜた対応を強いられていることがうかがえる。国際的な批判をよそに圧倒的な力によって民主化勢力を押さえつけている軍政も、強硬手段一辺倒では通用しない。番組は少数民族と軍政の微妙な関係に迫る。
#54 「LOTTAPACE~コソボ・哀しみと祈りのハーモニー」(’10年12月12日放送)
バルカン半島・旧ユーゴスラビアに位置するコソボ共和国は、かつて激しい民族紛争を経験した。10年余りを経て、一昨年セルビアからの独立を宣言したものの、今も戦後復興の途上にある。
この国のオーケストラで首席指揮者を務める日本人がいる。長野県出身の柳澤寿男さん、39歳。今年7月、コソボ・フィルを率いて帰国し、長野県岡谷市などでコンサートを開いた。
今回、初めて観客の前で演奏された曲がある。戦争と平和をテーマにした「LOTTAPACE(ロッタパーチェ)」。作曲者のバキ・ヤシャリさんは、柳澤さんをコソボ・フィルに招いた人物で、曲は紛争で自らが体験した哀しみから生まれた。
演奏する楽団員にとっても紛争をテーマにした曲と向き合うことは簡単ではない。演奏を始めると当時の記憶が蘇るというのだ。
戦禍の傷跡を抱えながら音楽を糧に生きようとする楽団員、その哀しみと祈りに寄り添いタクトをふる柳澤寿男さんを、コソボに取材した。彼らの葛藤や格闘から生まれた音楽が訴えるものとは何か。音楽家たちの魂の響きに迫る。
#53 「野球に生きる~休部を乗り越えて~」(’10年11月28日放送)
日産自動車九州硬式野球部。1985年に福岡県苅田町の九州工場内に誕生した名門社会人野球チームだ。プロ野球選手も輩出し、強豪として名を馳せていた。2009年、チームに衝撃が走った。
『無期限の休部』。
長引く不況のあおりを受け、企業のトップが下した結論だ。
プロを目指し、移籍を志願した者。野球から身を引く決断した者。選手たちは野球人生の岐路に立たされた。
休部からまもなくして、チームはクラブチーム「苅田ビクトリーズ」として生まれ変わった。立ち上げたのは日産九州野球部の元監督。日産を強豪チームへと押し上げた立役者だ。
元監督のもと、再び野球を始めた選手たち。ただ、現実は厳しいものだった。これまでになかった工場勤務との両立。
勤務時間がばらばらなため、選手全員が揃っての練習はほとんどできず、夜になってようやく練習を始める選手もいる。
これまでとは異なる厳しい環境のなかでも選手たちが野球を続ける理由とは何か。そして、チームを後援会として支える工場の従業員にとって野球とは何なのか。
休部を乗り越え、彼らが目指した野球への思いを追った。
#52 「考察“口封じ裁判”」(’10年11月14日放送)
市民が自由に発言してモノをいう。そんなあたり前の権利が、おびやかされている。いきなり訴訟を起され、巨額の損害賠償を求められるケースが増えているのだ。
隣にマンションが出来ることに反対した千葉県船橋市の市民が、マンション開発業者から巨額の民事訴訟を起された。裁判が反対運動の封じ込めに利用されたのである。
新銀行東京の元行員が内部告発したところ、銀行から巨額民事訴訟を起された。裁判に名を借りた、口封じの圧力だった。
こうした口封じ訴訟は、アメリカでは「SLAPP(スラップ)」と呼ばれ、言論の自由や市民の権利を奪う危険な訴訟として、規制されている。しかし、日本にはこうした規制はなく、野放しの状態だ。
「日本にもSLAPP規制を・・」そう訴えるのは、自身もSLAPP被害を受けたジャーナリストの烏賀陽弘道さんだ。
オリコンから巨額民事訴訟を起され、2年9ヶ月もの間、裁判に忙殺された烏賀陽さんは、今回、米国のSLAPP規制の現状を取材してあらためて思った。「訴訟を起す権利は誰にでもあるが、それを乱用する権利はない・・」と。
日本における口封じ訴訟の現状と、米国のSLAPP規制の実情などを紹介しながら、言論と裁判のあり方について考える。
#51 「証言 八十年目の真実~長島 そして ノルウェー~」(’10年10月24日放送)
瀬戸内海の島にあるハンセン病国立療養所・長島愛生園から、入所者の生の声が録音された数十本のテープが見つかった。そこには、入所者が療養所での自らの体験を語った、貴重な証言がおさめられていた。
「釣りをしただけで監獄へ入れられた」
「職員が土足で部屋に上がってきた」
様々な証言を記録していたのは、15年前に亡くなった同じ入所者の島田等さん。園内きっての理論派だった。島田さんは、生前、山陽放送の取材の中で「なぜ日本は、世界の趨勢だったノルウェー方式のハンセン病医療政策をとらなかったのか?」と日本の強制隔離政策を批判していた。
ノルウェーでは、ハンセン病の患者についても、他の病と同様に、自宅療養を認めただけでなく、入院した患者も治れば帰宅させた。患者の人権も尊重されたという。
世界の模範となったノルウェーのハンセン病政策、日本のメディアとしては初めて、その現地を取材した。
そこで、らい菌を発見し、ハンセン病の克服に尽力したハンセン医師が司法の場で裁かれていた事実を知る。菌を培養するため人体実験をした罪に問われ、医師の免許を剥奪されたのだ。「患者の人権が重要視された判決だ」とノルウェーのハンセン病研究者は言う。
また、ハンセン病だった親や兄弟のことを後世に伝えようという「家族博物館」が、その家族の手で作られていた。「ハンセン病を隠す必要はない」と。
翻って日本では、未だハンセン病の入所者は、療養所を終の棲家にしている。入所者の証言を追う中で、ノルウェーのハンセン病政策が紐解かれ、日本とノルウェーの医療政策の差異を描き出すことになった。
#50 「そこにお富さんがいた~“頂点”沖縄高校野球の“原点”~」(’10年10月10日放送)
沖縄の興南高校が優勝。戦後65年の夏、初の全国高校野球選手権大会優勝、初の春夏連覇で、沖縄の高校野球は、名実ともに全国の頂点に立った。甲子園球場のアルプススタンドでは、沖縄県だけでなく、多くの兵庫県の人たちが喜びを分かち合っていた。
沖縄と兵庫の絆。
それは65年前に遡る。
米軍が迫りくる1945年1月、神戸出身の島田叡が知事として赴任し、住民とともに沖縄戦の彼方に消息を絶った。旧制神戸二中、三高、東京帝大で俊足・好打の外野手として活躍した島田は、沖縄では白球を握ることはできなかった。
1964年、島田の母校、兵庫高校(旧制神戸二中)から沖縄県の高校野球連盟に「島田杯」が贈られる。アメリカの施政権下で、甲子園への出場権がなかった沖縄の高校球児たちは、島田杯を目指してボールを追った。
甲子園球場の内外で、沖縄と兵庫の人々が語った人物で、島田叡とともに忘れられない名前があった。富田忠常さん、通称「お富さん」である。兵庫・三田学園の体育教師であり、寮監として多くの生徒の親代わりでもあった。教え子にはプロ野球選手もいる。
その「お富さん」が1950年、沖縄の糸満にいた。戦後まだ5年、厳しい渡航制限が敷かれている中、密航船で渡航した。糸満での教員生活はわずか3年だったが、そこで「お富さん」は人々に深い印象を残すことになる。
沖縄戦でも最も悲惨な戦いがあった糸満は、遺骨収集のさなかだった。そこで「お富さん」は何を見て、何を感じたのだろうか。そこから、沖縄の高校野球との絆が生まれていった。
「沖縄の高校野球が優勝する日は近い」。
16年前に、そう書き残した「お富さん」。その軌跡を追った。
#49 「ヒロシマから離れた地で…~仙台の被爆者 木村緋紗子さん 魂の叫び~」(’10年09月26日放送)
木村緋紗子さん(73)。仙台に移り住んで34年になる。木村さんは被爆者として、宮城県内の学校などを回り被爆体験を子どもたちに語る「語り部」の活動を続けている。また県内の被爆者らで作る「宮城県原爆被害者の会」の事務局長も務め、被爆体験を語り継ぎ、核兵器の廃絶を訴える活動を推し進めている。
しかし県内に住む被爆者も高齢化が進み、会員は減少の一途だ。会の存続が危ぶまれる中、木村さんは被爆者の子どもにも活動への協力を呼び掛けるなど奔走する。
木村さんは8歳の時出身地・広島で被爆。父や祖父ら家族と親類8人を亡くした。自らは祖父の別荘の中にいたため一命はとりとめたものの、今も放射線の後遺症と見られる病気と闘っていて、体には8度もメスを入れている。
原爆投下から65年。木村さんは初めて、自分が被爆した広島市内の祖父の別荘があった場所を訪れた。熱線で焼けただれ、苦しみながら死亡した祖父。木村さんは核兵器廃絶への思いを新たにする。また、自分が卒業した広島市内の小学校を訪問した木村さんは、宮城の子どもたちとの原爆への意識の差も改めて痛感し、語り部の必要性を再認識する。
そんな中チャンスが訪れた。家族を奪った国アメリカに、被爆者の代表として訪問することになったのだ。憎しみを訴えに変えた木村さん。アメリカの人たちに核兵器の廃絶を強く呼びかけた。
7月、宮城県の原爆被害者の追悼式。仙台の高校生たちが自ら手を挙げ、被爆者の詩を朗読した。きっかけは以前聞いた木村さんの被爆体験。「どんな方法でも良いから語り継ぎ、原爆の恐ろしさを伝えて行ってほしい」。そんな木村さんの願いは、ヒロシマから離れた地に、ゆっくりと根付き始めている。
#48 「やんばるの白ひげ~核の傘の下で~」(’10年09月12日放送)
2010年8月6日、被爆65年の「広島原爆の日」は特別な1日となった。式典には、原爆投下国アメリカの駐日大使が初めて参列した。そのアメリカ大使を目の前に、秋葉広島市長は、異例の平和宣言を読み上げた。
「今こそ、日本政府の出番。『核の傘』からの離脱を」――
この宣言に至るまで、広島の反核・平和運動には、長い紆余曲折があった。それを象徴する人物が、沖縄本島北部の山岳地帯「やんばる」にいる。
「広島を伝えるとはどういうことなんか」白く長いひげを生やす月下美紀(つきした・よしのり)さん(69)には、虚無感が漂う。月下さんは広島で原爆に遭った体験をもとに、反核・平和運動に奔走。バチカンでローマ法王と面会し、法王のサイン入りの平和のメッセージを世界へ発信して、脚光を浴びたこともある。しかし、その後、運動に限界を感じ、10年前、やんばるの廃屋に移り住んだ。今は、人との交わりを断った生活を送る。そして、月下さんの挫折は今年、繰り返された。
「核なき世界」への期待が託された国際会議。「世界で唯一の被爆国」である日本の首相・外相は、ともに欠席した。開幕当日、鳩山首相(当時)は沖縄で普天間問題に対応していた。老骨に鞭打って現地入りした被爆者からは、深い失望の声が漏れる。「核廃絶の先頭に立つ」はずの被爆国首相が、核廃絶への交渉よりもアメリカの基地を優先――核の傘の下から核廃絶を訴えてきた日本の矛盾があぶりだされた。それこそが、月下さんの挫折の理由だった。
日米安保改定から半世紀の節目に、核の傘を問う。
#47 「引き裂かれた家族~フィリピン残留日本人の戦後~」(’10年08月22日放送)
19世紀末頃からフィリピンに渡った日本人移民は、太平洋戦争によってその運命を大きく狂わせることになる。苦闘の末、ようやく豊かな移民社会を築き上げた日本人移民の多くはフィリピン人女性と結婚、子供も生まれ、ささやかだが幸せな日々が続いた。ところが、旧日本軍のフィリピン侵攻に伴い、彼らは軍人、軍属として徴用された。隣人であり、親戚であったフィリピン人と、敵同士として争わなければならなかった。多くの人が命を落とした。
そして、生き延びた人は日本に強制送還され、子供たちの多くはフィリピン人母とともに残された。終戦時、両親ともに亡くし孤児となった二世も少なくない。戦後の反日感情の強いフィリピンで「ハポン(日本人)」と罵られながら、かろうじて生き延びてきた。長い長い戦後だった。
◆山口八重子(87歳)、父親は福岡市出身の移民。
◆タカタ・ミヤコ(65歳・フィリピン名:Fe Takata)、父親は福岡出身。
◆安谷屋ロドルフォ・セイイチ(68)、安谷屋トリニダッド・ヨシコ(66)兄妹の父親は沖縄県うるま市津堅島の漁師。
◆カタリーナ・デラクルス(83歳・一世配偶者)、1941年、沖縄出身の移民「タカミネ カツオ」と結婚。
◆レテシィア・ガルーダ、両親が日本人だが、どこの出身かも分からない。父の記憶はなく、母はバゴボ族の兵士から殺害され孤児となった。
◆エステリータ・ローゼス(日本名:さかいみつこ)、日本人「さかい」とフィリピン人女性ヤネツの長女。
日本人が忘れ去ろうとしている、戦争によって引き裂かれたフィリピン残留日本人の家族の肖像。そこに、長い長い戦後の苦悩と深い哀しみ・・、そして、生きる力が見える。
#46 「ちゃーすが(どうする)!?沖縄~金城実のレジスタンス」(’10年08月08日放送)
65年前、アメリカ軍が上陸した読谷村の浜からすぐのところに、そのアトリエはある。彫刻家・金城実さん。サトウキビの葉が揺れる、まぶしいばかりの風景の中で、金城氏は沖縄の思いを彫り続けている。集団強制死の悲劇が起きたチビチリガマにある平和の像もそのひとつだ。
私(佐古)と金城実氏の出会いは、ある少年の事故死をめぐる取材がきっかけだった。少年は、金城氏が本土で英語教師として教壇に立っていた当時の同僚の息子で、彼に弟子入りを熱望していた矢先、米兵との交通事故でこの世を去った。少年の父親は、理不尽な日米地位協定の不平等さに、被害者の会を立ち上げ、今も活動を続けている。
少年の死をきっかけに、金城氏は変わらぬ沖縄の現状を訴えようと、10年かけて、沖縄の歴史を刻んだ100メートルに及ぶレリーフ「戦争と人間」の創作に取組んだ。そこには、アメリカやこの国に翻弄された沖縄の歴史と民衆の姿が刻まれている。
今年春、金城氏の姿は総理官邸の前にあった。普天間基地の県内移設に反対するための抗議で、憲法9条の条文がプリントされたTシャツに身を包んだ金城氏の口から出ていたのは、沖縄の叫びだった。しかし、「最低でも県外移設」への期待は裏切られた。
なぜ、沖縄なのかの根源的な問いに誰も答えない中で、金城氏は、変わらず問い続け、そして沖縄はどうするのか? 沖縄自身にも問いかける。
翻弄される沖縄のいまを、金城氏の姿を通して描く。
#45 「79歳、路上にて~大道芸人ギリヤーク尼ヶ崎」(’10年07月25日放送)
今年80歳を迎える大道芸人“ギリヤーク尼ケ崎”。
38歳の時、銀座の路上で創作舞踏を披露したのをきっかけに、大道芸人の道を歩みはじめる。以来40年余り、常連客からの「おひねり」のみで生計を立ててきた筋金入りの路上芸人だ。
そんな彼が78歳の冬、心臓に疾患が見つかる。
「心臓が4,5秒止まっている」
と医師に言われ、08年12月、ペースメーカーを入れる手術を受けた。このため活動継続が危ぶまれたが、09年5月、彼は再び路上に立ち、芸人として復活する。
復活したギリヤーク尼ヶ崎を半年間に渡って取材した。
芸へのこだわり、こうしか生きられないという不器用さ、体が動く限り踊る覚悟…。80歳を前にした人間が、全身全霊をかけて露天で踊り続ける姿をカメラは追い、生き様と人柄を見つめる
#44 「検証・新型インフルエンザ騒動から1年」(’10年07月11日放送)
新型インフルエンザ騒動から1年。新型インフルエンザによる死亡率で、日本は0.15%と先進国の中でも最も低く、世界の注目を集めている。
その一方で、患者の出た学校に対して、「地域から出て行け」、「責任を取れ」といった誹謗中傷が殺到し、生徒に対するタクシーの乗車拒否、制服のクリーニング拒否などといった事態が生まれた。
なぜ、こうした事態が生まれたのか。行政の出す情報の内容、情報の出し方、マスメディアの報道のありように問題はなかったのか。そして当時盛んに呼びかけられた言葉、「正確な情報に基づいた冷静な対応」。その意味するものは何だったのか。そもそも、「正確な情報」という言葉の意味するところは、何だったのか。
そんな疑問から追っていったもののなかに、「強毒型」という言葉がある。1年前、すでに「新型」=「強毒型」という図式が、広く国民の間に浸透していたという素地があった。そこへ発生した新型インフルエンザ。国の実際の対応は、検疫や発熱外来などに象徴されるように、この「強毒型」に、引きずられた。
だが、「強毒型」とはそもそも何を意味するのか。専門用語なのか? 行政用語なのか? その定義は・・・?「強毒型」という言葉を使う行政や、研究者、メディアを取材していくうちに、意外な事実が浮かんできた。
危機に際して、曖昧な情報、不明確な言葉は、人々の不安や恐怖心を増幅させる。誹謗中傷は不安の裏返しであり、流布される言葉や情報が、まさに誹謗中傷と結びつく結果となった。
この一年の経験から、私たちは何を学ぶべきなのか。そして、次のインフルエンザ流行にどう向き合うべきなのだろうか。
#43 「とことん~銀メダルを支えたスケートおやじ」(’10年06月27日放送)
バンクーバー五輪「チームパシュート」で日本女子スピードスケート界に史上初の銀メダルをもたらした富山市の田畑真紀選手と穂積雅子選手。その快挙を支えたのが「富山のスケートおやじ」ことダイチ会長の田中実さんだ。
富山市の地質調査会社「ダイチ」は、15年前に社会貢献の一環としてスピードスケート部を立ち上げた。スケートリンクもない富山県で、選手を育てることは容易ではなかったが、一度決めたらとことんやる性格のスケートおやじは、「世界で活躍する選手を富山から」と願ってスケート部を維持してきた。そしてついに、快挙の銀メダル。
あれから4ヶ月…。
あのスケート親父が、また夢に向かって動き出した。次は、100分の2秒差で逃した金メダルを獲ることが目標だ。
誰よりも早く、ソチでの金メダル獲得を誓ったスケートおやじ。男気たっぷりの田中会長のスケートにかける姿をドキュメントで描く。
#42 「私たちは、どこまで知るべきか~裁判員制度開始1年~」(’10年06月13日放送)
裁判員制度がスタートし、市民参加の「判決」が下される時代となった。この制度では有罪無罪のみならず量刑についても判断が求められ、裁判員は「死刑」「無期懲役」「懲役」「執行猶予」などの判断を下さなければならない。しかし、私たち一般市民は「刑」について、いったいどれだけの理解をしているのだろうか?
たとえば「死刑」について、死刑囚がどんな処遇を受け、死刑がどう執行されるのか、私たちは情報を与えられているだろうか? あるいは「懲役」について、刑務所がどういうところで、受刑者がどんな日々を送っているのか、私たちは明確な理解をしているだろうか?
こうした「刑の情報公開」の問題を取り上げながら、あるべき裁判員制度とは何かを2つの視点から探ってみた。
ひとつは、死刑の実体はどこまで知らされるべきなのか?という視点から、かつて裁判官だった人びとの多様な意見を紹介する。
もうひとつは、刑務所の実体はどこまで知らされるべきか?という視点から、フランスの裁判員制度における刑務所見学の例などを紹介しながら、問題提起する。
裁判員制度の開始から1年経ったいま、制度のあり方をあらためて問い直してみたい。
#41 「終着駅のむこう~JR不採用24年目の“解決”」(’10年05月23日放送)
1987年、国鉄が分割民営化された。このとき7万人以上がJRへ移らず鉄道の仕事を辞めたが、その過程で分割民営化反対を主張していた国労=国鉄労働組合員を狙い撃ちにした解雇が行われ、JRは採用の門を閉ざした。その数1,047人。特に経営基盤の弱い北海道と九州では、他の労組員がほぼ全員採用される中、国労組合員のほぼ半数が不採用だった。
国労側は各地に闘争団を結成し「国労を排除するための不当労働行為」であると訴えて法廷闘争を展開、JRには不採用の責任がないとする判決が確定する一方で、2005年以降は、不採用の責任は当時の国鉄にあると認め、国鉄の債務を引き継いだ鉄道建設公団(現独立行政法人・鉄道運輸支援機構)に不当労働行為があったとして賠償金の支払いを命じる判決が相次いだ。
この間1,047人の組合員は、それぞれの地域で独力で事業体を結成し生活費を捻出してきた。土木作業のアルバイトのほか、和菓子や木工製品を作って全国を売って歩いた。組合員の妻たちは「夫の鉄道復帰」を合言葉に全面的に支えてきた。
解雇から23年を迎える今年、与党3党と公明による4党が和解の道筋を示した。そして今年4月9日、ひとり平均2,200万円の解決金とJRの採用を盛り込んだ案を政府・組合側双方が受け入れると表明した。四半世紀におよんだ解雇撤回闘争はようやく解決する。安堵する全国の組合員たちとその家族。しかし彼らの多くはすでに50歳を過ぎた。鉄道の仕事に戻る者、あるいは戻れずに生きていく者。闘争の解決は終着駅ではない。この先にある「第二の人生」をいかに生きていくのか。人生の選択が迫られている。
解雇から解決までの23年間の道のりを北海道の小村・音威子府に辿り、41人の組合員と家族の「これから」を見つめる。
#40 「ドキュメタリー『天皇と軍隊』をめぐって」(’10年05月09日放送)
戦後日本を描いたフランスのドキュメンタリー作品が、話題になっている。タイトルは『天皇と軍隊』。日本国憲法の一条と九条、すなわち「天皇制」と「戦争放棄」の問題にストレートに切り込んだ内容だ。
この作品は、海外で高く評価されているだけでなく、日本人がみても、新鮮な内容に驚かされる。「天皇」、「軍隊」について、これほど真摯に問題提起しているドキュメンタリーは数多くないが、何よりも戦後日本のたどった歴史をあらためて考えさせられるからである。
ドキュメンタリー作品『天皇と軍隊』で描かれた、戦後日本の姿とは?そして、このドキュメンタリーが日本社会にインパクトを与える理由は?
作品の内容を、予告で語ることはしない。『天皇と軍隊』の本編を見ながら、一本のドキュメンタリーが描き出す日本の姿について考えてみたい。
#39 「ドキュメンタリーの“眼”~新しい旗手たち~」(’10年04月25日放送)
1秒の差を追求する速報主義と、時に情報過多と言われるテレビ報道の奔流は、ニュースの「賞味期限」を短くした。その流れの中、「記録」や「検証」という「眼」を、失ってしまったのだろうか。
「ドキュメンタリーの時代は終わった」…いつ、誰が言ったのだろう。テレビ報道に32年携わってきた記者は考える。テレビの有力な番組形態だったドキュメンタリー番組は、いま、表舞台には立っていない。その手法を、すっかり映画に譲ってしまって、テレビでは片隅にいるか消滅の瀬戸際にあるのはなぜなのだろうかと。
そんな中、2009年12月に福岡で行われたJNN九州沖縄ブロックのドキュメンタリー番組、「ムーブ」の年間大賞審査会。決選投票を経て選ばれた大賞と準大賞、その取材と制作に当たったのは、夫々の局を代表するアナウンサーだった。そしてそこには、ベテラン制作者の視線も注がれていた。
女性とアナウンサーがキーワードとも言われる九州沖縄地区。そのドキュメンタリーの眼はどこから生まれ、どこに向かうのだろう。TBS解説委員が、 九州・沖縄地区のドキュメンタリー番組制作の最前線を取材し、新しい旗手たちのドキュメンタリー宣言をお伝えする。
#38 「15年目の対話~語り続ける“村山談話”~」(’10年04月11日放送)
村山富市元首相(86)はいまも国内外で多忙な講演活動を送っている。
国内では戦後政治の転換点となった村山政権の誕生秘話を披露し、中国などアジア諸国では日本とアジアの今後について語る。そこでは、国賓なみの待遇だ。アジアで村山元首相が重要視されるのは何故か。
その理由は1995年8月15日、戦後五十年の節目に発表した「村山談話」にある。
過去の戦争に対する反省と平和への決意を表明したこの談話は、自・社・さ政権という戦後政治の転換点の中で生まれた。そして、この談話は、村山内閣以降、現在の鳩山内閣まで、歴代内閣が継承し続けている。
その一方で、国内では次第に村山談話に批判的な言論が大きくなり、政府内でも時折問題となる。そのような状況の中、村山元首相はいまも談話について語り続けている。自ら語る村山談話とは。
村山元首相の活動に密着し、国内外の談話をめぐる状況を取材しながら、発表から15年が経過した「村山談話」について改めて考える。
#37 「ひとりじゃないよ!ホームレスからの脱却助けます」(’10年03月28日放送)
昨年3月、吉松裕蔵さん(60)は、契約期間を2年半残して熊本市の嘱託職員を辞めた。自らが事務局長を務めるNPO法人「ホームレス支援の会」の業務に専念するためだ。
一昨年の秋以降、非正規雇用者の雇い止めなどでホームレスやその予備軍が急増している。また、ホームレスたちが生活の糧としている空き缶の値段が暴落するなど、ホームレスを取り巻く環境も一段と厳しくなった。吉松さんの元には、生活や雇用相談が相次いでいる。彼らに共通するのは「孤独感」。
そんなホームレスの中で、吉松さんが一番気にかけているのが塚田さん(51)。持病の胃潰瘍が悪化し最近では動く事もままならない。体重が2ヶ月間で15キロも減ってしまった。社会に迷惑をかけたくないと、塚田さんはこれまで生活保護の申請をためらっていたが、見るに見かねた吉松さんは、生活保護を受けるよう説得した。しかし、その手続きには、いくつかのハードルがあった…。
ついつい、そのハードルにめげて、再び孤独に陥ってしまうホームレスたち。自立は孤立ではなく、安心感の中で成し遂げられるもの。吉松さんはホームレス達に声をかける。
「ひとりじゃないんだよ」
吉松さんの活動を通してホームレスの現状、支援、自立するための福祉の課題、自立後の問題点を浮き彫りにする。
RKKアナウンサーが、日々のニュースの中から自ら現場に接し、それをきっかけに30分枠の番組にまとめた初めての作品が、去年、九州・沖縄地区の準大賞作に選ばれた。その後も取材を継続して、新たに番組としてまとめた作品。関東地区での放送とともに、JNN各局に素材として配信され、各地で放送される予定。
#36 「子供たちが火山を知らない~島の先生奮闘記」(’10年03月14日放送)
2000年7月に噴火し、全島民が避難した三宅島。5年近い避難生活の後、島民たちは島に戻ったが、いまも火山ガスの発生が続き、島の半分は立ち入り禁止区域となっている。生活は一変したが、なかでも子供たちが「島のことをすっかり忘れてしまった」ことが、生活をより寂しいものにしている。火山を知らない子供たちが、果たして地元意識をもって生活してゆけるのだろうか・・・。
そんな三宅島の高校にひとりの理科の先生が赴任してきた。川澄隆明先生(52歳)は、大学で地質を学び、ヒマラヤ制覇なども成し遂げた自然人である。川澄先生は、三宅島の子供たちが、島のことを知らないことに愕然とし、ある取り組みをはじめる。一年生17名と、島を知り、火山を知り、防災に役立つような手作りの授業を始めたのだ。果たして、この授業によって生徒たちは、どこまで成長してゆくのだろうか・・・。半年間にわたって三宅高校の川澄先生と生徒達を取材し、地学教育と防災、人間と火山の共生について考えた。
#35 「特攻を語る講談師~『紅雲亭飛僧』~」(’10年02月28日放送)
東京・上野の演芸場・上野広小路亭。ここでは月に一度、女流講談師の草分け的存在・神田紅さんが講師を勤める講談教室、通称「紅塾」が開かれる。
講談といえば、軽やかに響く「張り扇」の音に、「メリ・ハリ・ツッコミ・謡い調子」のリズムで歴史的事件を軽妙に語り聞かせる、伝統の話芸だ。
その紅塾に「講談で『戦争体験』を語る」一人の男性がいる。塚越朝紀さん、88歳。味のある人柄で、クラスでもちょっとした人気者の塚越さんの前職はパイロット。日本航空では機種選定のためのテストパイロットも務め、日本で初めてジャンボジェット機を操縦したのも塚越さんだった。
そんな塚越さんが語る『戦争体験』とは、太平洋戦争中に行われた「特攻作戦」について・・・。戦時中、陸軍航空隊に所属していた塚越さんは、自身が訓練した若者たちが特攻隊員に指名され、特攻作戦に参加していく姿を間近で見ていた。
17年前クモ膜下出血で倒れ、リハビリのために始めた講談。塚越さんが今語り続けているのは「特攻悠久隊」と題された創作講談。空への憧れからパイロットとなった塚越さん。そして「特攻」・・・。そこから見えてきた「空での戦争」の姿とは?
#34 「夜間中学が教えてくれた~学びとは何か~」(’10年02月14日放送)
「40年前から 勉強したかった!したかった!」大阪、守口第三中学校の夜間学級。廊下で、生徒さんのこんな言葉に出会いました。
教室で机を並べる、60代から80代の生徒たち。そこでの学びは、ただ単に読み書きを習得するだけのものではありません。生き方、人生そのものを揺さぶっていきます。
39年間営んできた花屋を譲り、夫婦で通った生徒さん。沖縄戦で戦死した兄の名前を、慰霊碑に刻銘するべく動き出した生徒さん。“学ぶ”ということがどういうことなのかを、3年間の取材の中で、教えてもらいました。
#33 「未来へのノーサイド~東福岡高校ラグビー部 谷崎重幸監督~」(’10年01月31日放送)
2008年1月、第87回全国高校ラグビーでついに初の日本一に輝いた東福岡高校ラグビー部・谷崎重幸監督50歳。
谷崎監督は勝つことのみを目的としたラグビーを嫌い、練習でも、試合でも、具体的なプレーの指示は出さない。選手の自主性を尊重し、選手だけでミーティング、そして実行させる。ラグビーといえば熱血カリスマ教師を中心とした熱い部活動という印象もあるが、東福岡では谷崎監督の口癖でもある「選手が主役」のスタイルを貫いている。
しかし、そんな谷崎監督もかつては自らの経験を押し付けるスパルタ指導をおこなっていた。自分を変えるきっかけとなったのは最愛の妻の38歳という早すぎる死。「妻は38年という短い人生を本当に楽しんだのだろうか?ラグビーに没頭する自分のせいで我慢したことがたくさんなかっただろうか?」それから谷崎監督は休職し、残された3人の子供とニュージーランドに渡った。そこで見たものは、心からラグビーを楽しむ姿。
「命」を知った谷崎監督が目指すのは日本一連覇よりも、選手に生きる力を身につけてもらうこと、そして全ての子供が楽しめるラグビー環境を作ること。高校ラグビー界では新時代の異端児と呼ばれる男の姿を追ったドキュメンタリーである。
#32 「子どもたちの顔を救え」(’10年01月17日放送)
日本を含むアジアでは、400~500人に1人の割合で唇裂の子どもが生まれている。日本では生まれてすぐ手術を行い、今は街中ではほとんど見かけることはなくなった。しかし、途上国では主に貧困などの理由で手術が受けられず、周囲から差別され、学校にも行けない子どもたちが多い。こうした現状を何とかしようとアメリカのNPOが世界中からボランティアの医師を集め、途上国に送り込んで大勢の子どもたちを救ってきた。
11月初め、ベトナムの11都市で集中手術が行われ、およそ900人の子どもたちが手術を受けた。これまで行われてきたミッションでも最大級のもので、このミッションに初めて日本人医師(女医)が参加し、手術に当たった。
手術にかかる費用は子ども一人当たり約2万5000円。こうした費用はすべて一般からの寄付金でまかなわれている。手術を受けるために多くの子どもたちが親に連れられてやってくるが、適応を外れた子どもたちは手術を受けられない。ミッション初日に行われるスクリーニングには悲喜こもごものドラマがある。
番組では、この女医の現地での活動を柱に据えながら、途上国の子どもたちが抱えている現状、援助のあり方などを考える。
#31 「急増する女性の大腸がん~早期発見に挑む~」(’09年12月20日放送)
大腸ガンで死亡する日本人が急増している。特に女性の大腸ガンの死亡者数は、最新の調査で年間19,000人を超え、胃ガン、肺ガンを抜いてトップとなった。
一般に大腸がんは、おとなしいガンだと言われ、早く見つかれば殆どが治る。しかし日本女性に、このガンで命を落とす人が後をたたない。なぜか。
その背景には、かなり進行しないと自覚症状が出ないこと。さらには、多少の症状があっても、検査は辛いし、恥ずかしいから嫌だと放置し、早期発見のチャンスを逸してしまうことがあるという。
昨年暮、横浜市内に開業した町田内視鏡クリニック。院長の町田マキヨさんは、医師になる前は、普通の専業主婦だった。ところが30歳を前に、友人たちが続けざまに手遅れの癌で死ぬという経験をする。何とかしたいという思いで医学部を受験、14年遅れで消化器の専門医となった。
町田さんのクリニックでは、検査に鎮静剤等を用いるため苦痛とは全く無縁。うとうとリラックスしている間に、全てが終了する。ただ、このやり方は医師に豊富な経験と、優れた技術がなくては出来ない。
大腸ガン早期発見のために奮闘する女性内視鏡専門医、町田さんの診療の日々を見つめながら、大腸ガンで命を落とさないための処方箋を探った。
#30 「dAの時代~今野勉が語るテレビの青春~」(’09年11月15日放送)
かつてTBSに在籍した今野勉さんが、『テレビの青春』という本を出版しました。テレビが本格普及を始めた1960年前後の激動の時代を、番組制作現場の空気と思想を織り込みながら丹念に描いた自伝的ドキュメンタリーです。
この時期、テレビ受像機は飛躍的に普及し、その影響力は急激に拡大していました。それとともに、「一億総白痴論」、「テレビ俗悪論」など、社会とテレビの関係性をめぐる議論が盛んになり、テレビ制作現場の内外で「テレビとは何ものか?」という問いかけがなされていました。つまり、テレビがテレビらしくなっていった時代でした。
この時期、今野さんは同期の仲間たちと「dA」という奇妙な名前の同人誌を発行し、テレビの可能性について熱い議論を展開していました。
先輩ディレクターに噛みつき、テレビの新たな表現を模索していったdAのメンバーたち・・。無名だったADたちの、若さと無謀さと・・。今野さんが「dAの時代」を振り返りながら、テレビの成長、テレビが果たした役割、テレビをめぐる開拓精神などを描いてゆきます。回想ではなく、今を逆照射するためのテレビ論として、今野さんに語ってもらうことにしました。
#29 「“沈黙”を破ったイスラエル兵~占領下のパレスチナで見たもの~」(’09年10月18日放送)
今年1月、イスラエルがパレスチナ自治区ガザに対し行った大規模な攻撃の記憶も、日本ではそろそろ薄れてきたころかもしれません。一方で、パレスチナといって真っ先に思い浮かぶのは、やはりあのガザ攻撃のように、おびただしい死傷者が出ている場面でしょう。何年もの間、衝突が繰り返され、和平交渉がいっこうに進まないパレスチナ問題。
こうした既視感や停滞したイメージが手伝ってか、ともすればこの問題は、“暴力の応酬”や“憎しみの連鎖”といった安易な構図で解釈され、解決に向けた糸口すら見失われがちです。パレスチナ問題がこうした構図で語られるとき、忘れ去られてしまっているのが、問題の根底にある「占領」…イスラエルがパレスチナを占領しているという事実です。逆に、この「占領」を見つめ直すことによって、何らかの光明が見えるかもしれません。
そんな折、「この地域に平和をもたらすためには、イスラエルは占領をやめなくてはいけない」と考える若者達がイスラエルの中から現れました。パレスチナ人の反発を力で抑え込む占領政策の現場で、その反発の矢面に立たされた元イスラエル兵です。これまでイスラエル側から語られることのなかった“占領の闇”について“沈黙を破り”ました。
彼らは、兵役という国家システムの中で、ある時は命令されるがまま、ある時は疑問を感じながら、またある時は思考を停止して行った任務について、その非人道性を告白し、占領されているパレスチナ側の悲劇について語ります。そこで起きていることを知ってもらうことで、占領を終わらせ、和平につなげたいと訴えます。さらに、占領地で兵役を続けるうちに人間的な感情が麻痺していくことで非人道的行為に手を染めてしまう恐ろしさについて語り、これが世界中のすべての軍隊に起こりうる普遍的な問題だとも指摘します。
イスラエル軍による特に過酷な占領体制が敷かれているパレスチナの町ヘブロンを訪ね、兵士が自国の占領政策に疑問を感じるようになった現場を取材しました。
#28 「海の彼方の憲法9条」(’09年09月20日放送)
大西洋に浮かぶスペイン自治州のカナリア諸島は、多くの観光客が訪れる常春のリゾート地。大西洋のハワイとも言われている。ヨーロッパとアフリカ、アメリカ大陸を結ぶ海上交通の要衝で、大航海時代にコロンブスが遠征の度に寄港していたことでも知られている。
そのカナリア諸島の一隅に、日本の憲法9条の碑があることをご存知だろうか?その島はグランカナリア島といい、町の名はテルデ市。人口9万の小さな町である。このテルデ市に「ヒロシマ・ナガサキ広場」と名付けられた小さな公園があり、そこにスペイン語で綴られた憲法9条の全文が掲げられている。畳一畳ほどの平和のモニュメントだ。
日本から遠く離れた大西洋の楽園、カナリア諸島に、思いも掛けず息づく日本の憲法。誰が、何故、どんな思いで9条の碑を建立したのだろうか?日本という狭い枠から解き放たれた憲法9条は、いったいどんな相貌を見せているのだろうか?
#27 「自己検証・足利事件~私たちはどう報じたか~」(’09年08月16日放送)
18年前、メディアが「スゴ腕」とまで持ち上げたDNA鑑定は、未成熟で不正確なものでした。しかし、その不正確な鑑定が決め手となって一人の男性が犯人とされ、長く自由を奪われることになったのです。男性の名は菅家利和さん。幼女を誘拐して殺害した罪で無期懲役の判決を受け、これまで17年間の獄中生活を強いられてきました。足利事件によって浮かび上がったのは、“科学捜査”の前にひれ伏し、何の疑問も抱かなかった、捜査のプロ、司法のプロ、報道のプロたちの曇った目でした。警察、検察、裁判所と並んでメディアもまた加害者の側に立っていたことになります。私たちは、足利事件をどう伝えてきたのでしょうか。事件発生の瞬間にまで立ち戻って、報道の軌跡を辿ってみました。警察発表を鵜呑みにした報道の痕跡を、当時取材した記者たちはどのように振り返るのでしょうか? そして、どんなふうに教訓としてゆくことになるのでしょうか?警察頼みの構図が歴然と続く中、決してきれいごとだけでは済まされない事件報道の現実があります。悩める事件報道の現場から、足利事件が問いかけているものとは何だったのかを検証します。
#26 「日韓高校生の異文化交流~修学旅行のソウルで見たもの~」(’09年07月19日放送)
京都の高校生が、修学旅行の訪問先に韓国を選んだ。この学校では、生徒がコースを決めて、内容も企画する。学年300人の生徒。いくつかのコースの中から韓国を選んだのは、36人だった。
計画をたててから1年。状況が大きく変わる出来事があった。2008年4月、韓国のイ・ミョンバク大統領が日本を訪問、JNNの市民対話番組に出演した。この時、京都からの中継に参加した一人の高校生が質問する。「私は韓国への修学旅行を計画しています。お奨めの場所があれば教えてください」。大統領の答えは意外なものだった。「学校を訪問して、一緒に授業を受けてみてはどうですか」。それから1年。韓国の仁川国際空港に降り立ったのは、300人中120人の生徒たちだった。「若い人たちは、30分で友だちになれるでしょう」と言った、大統領の言葉通りの日々。お互いのメールアドレスを交換して、連絡を取り合うことを約束する。
彼らの表情が一変したのは、「西大門刑務所」。日本の植民地時代に、独立闘争にかかわった人々を投獄した場所だった。
韓流ブームの一方で、時として摩擦が生じる日本と韓国の複雑な感情の諸相。韓国の若者は、実は日本をどのような目で見ているのだろうか。その真只中で、彼らの感じたものは何だったのか
#25 「いい爺いライダー~映画は“ふるさと”へのラブレター~」(’09年06月21日放送)
北海道むかわ町穂別。水田が広がる人口3,600人の小さな街だ。その街で、平均年齢76歳の爺さん婆さんが、映画を作った。役者は住民で、撮影・振り付け・衣装・メーク・編集、すべて自分たちが手がけた。血圧測定から始まる撮影。セリフは読んでも忘れるからその場でつめこむ。
映画のタイトルは、「いい爺いライダー」。合併に反対する老人たちが暴走族と化し、合併相手の若者と抗争を繰り広げるというあらすじだ。
実は、旧穂別町も、3年前、財政難が原因で隣町と合併した。
過疎、高齢化が進み、疲弊しきった地方。“平成の大合併”で、地方が抱える問題は解決されたといえるのだろうか。爺さんたちは、合併の中で感じた想い、葛藤を、映画に込めていく。
撮影には、合併相手の町の若者も誘った。ラストシーンは3通りも考え、最後まで悩んだ。そして去年夏、ついに映画は完成。今、爺さんたちは、上映会で各地を飛び回りながら、ある想いを日本全国に投げかけている。
#24 「リングの上のろう者たち」(’09年05月17日放送)
“ろう者”のプロレス団体がある。『闘聾門JAPAN』。ろう者にプロレスを思いきり楽しんでほしいと、2006年11月に旗揚げした。ろう者とは、日常言語に手話を使っている人のこと。レスラーも、審判も、スタッフも‥みんな、ろう者だ。リングでは手話で言い争う。試合後のマイクパフォーマンスも手話。観客もほとんどがろう者なので、試合は実に静かに展開する。手を上げ、手のひらを勢いよく揺り動かして「拍手」する。今、プロレスの人気は低迷しているが、彼らの興行はいつも盛況だ。エンターテインメントであるプロレス。レスラーは観客の反応によって、試合を展開させていく。聴者(聞こえる人)のレスラーであれば、歓声の大きさで客が沸いているかどうか判断して、沸いていればその技を連発し、沸いていなければ違う技に切り替えたりする。しかしろう者には、歓声が聞こえない。どうやって観客の反応を確かめるのだろうか? その裏には、ろう者の知られざる豊かな世界があった。代表の毛塚和義さんは、ろうプロレスは世界初!と胸を張る。一方で、資金繰りは難しく、選手やスタッフは手弁当である。どこか頼りなく、しかし、精一杯の気持ちがこもったプロレス興行だ。そんなろうプロレスが、沖縄で初めての興行を行った。毛塚さんは大の沖縄好きで、いつか沖縄でプロレスを興行したいと考えていた。その熱意に、琉球大学プロレス同好会がリングの貸し出しなど、協力をかって出た。チャンピオンのMUWA選手は、肋骨に2本ヒビを抱え、古傷のひざを痛めた状態でも試合に臨んだ。絶対に負けられない理由があったからだ。天国に旅立った父への思い‥。自称「世界最弱」レスラーのストーカー西川口選手は、胸の奥に孤独な思いをしまいこんでいた。様々な思いを胸にリングに上がるろうレスラーたちに、密着した。
#23 「好(ハオ)!~日本に渡った京劇俳優~」(’09年04月19日放送)
中国の伝統芸能・京劇。
200年の歴史を持ち「中国文化の集大成」とも言われる。様式化された動きと華麗な立ち回りは、しばしば日本の歌舞伎に例えられ、中国では国民的演劇として認知されている。その京劇界にあって、18年前、日本に渡った京劇俳優がいた。張紹成さん(46)。彼は本国ではかつて国家直属の劇団・中国国家京劇院で主役を務めたこともあるエリート俳優だった。しかし彼はその地位を投げ打って来日した。
1980年代、中国から海外に渡った京劇俳優は多い。改革開放路線の時代になって、京劇人気が底を打ったことが大きな原因だが、それと同時に張さんは「国が管理する京劇自体のあり方」に危機感を感じている。「客がいなくても給料はもらえる」という環境、そしてその中で「俳優とともに海外へ流出して散逸してしまう秘伝の技の数々」・・・。京劇の伝統を守る上で、現状は非常に厳しい。そうした中、異国、異文化の地・日本に渡って京劇を演じ、そしてその伝統を守っていく道を選んだのはどのような思いからだったのだろうか。
#22 「父の戦場、娘たちの継承~日比野さん一家の沖縄戦~」(’09年03月15日放送)
戦争体験の継承・・・。戦争の直接の体験者が年々減少する中、戦争を知らない世代は、如何にして親たちの戦争体験を受け継ぐべきなのか。ある一家に焦点を当ててみた。
2008年3月3日、桃の節句の日に一冊の本が自費出版された。
『今なお屍とともに生きる』
出版したのは、雛人形職人だった日比野勝廣さん(85歳)と4人の娘たち。兵士だった日比野さんの沖縄での過酷な戦場体験と、そんな父を娘たちがどう受け止めたかを記したものだ。世に戦争体験の本は数多あるが、親子2世代で綴ったという点で極めてユニークな本である。
日比野さん一家が本の自費出版を思い立った背景には、戦後、日比野さんが沖縄への慰霊の旅を100回以上も繰り返したことがある。
「お父さん、なぜそんなに頻繁に、沖縄に行くの・・・?」
沖縄行きを繰り返す父の姿に、娘たちは時に反発し、時に疑問を投げかける。しかし、そんな娘たちが、年齢を重ね父と共に沖縄の戦跡をめぐるうちに、父の思い、父のこだわりが少しずつ理解できるようになっていく。
「父は戦場で心の傷を負った。それを癒すため、沖縄に通う必要があった・・・」。
自宅で寝る時も暗闇を怖がった父。家族より戦友を大事にした父。不可解だった父の姿が、次第に娘たちにも生身の人間として理解できるようになっていった。
そんな家族の心の軌跡を親子で文章に綴ってみた。そして自費出版した。何の宣伝もしなかったが本への反響は大きく、沖縄をはじめ全国の読者から手紙が届いた。
出版から一年、日比野さん一家はあらためて戦争体験を継承することの意義を感じている。沖縄の地を親子で踏みしめる日比野さん一家に密着しながら、父の戦場、娘たちの継承について考えてみる。
#21 「風船爆弾~女学生が作った幻の決戦兵器~」(’09年02月15日放送)
1944年11月7日。太平洋沿岸から大空に向かって放たれた、いくつもの巨大な気球。託されたのは「アメリカ本土直接攻撃」という壮大な野望だった。
気球には、和紙とコンニャクのりで貼りあわせた風船に、爆弾が吊り下げられていた。戦況が悪化した第二次世界大戦末期、追いつめられた当時の日本軍が最後の決戦兵器と位置づけ、終戦後、幻のように消えた兵器「風船爆弾」である。
風船爆弾は、日本からアメリカに向かって吹く強い偏西風に乗せ、約9300個が放たれた。北アメリカ大陸に到達した数は推定1000個。もしそこに細菌が積まれていたなら―。事態を重く見たアメリカは、日本に作戦失敗と思わせるため、厳しい報道管制を敷いた。その結果、オレゴン州の小さな村で、5人の子どもたちと、おなかに子どもを宿していた牧師の妻が、風船爆弾の爆発で死亡した。彼らは、第二次大戦中にアメリカ本土で敵の攻撃を受けた、唯一の犠牲者となった。
風船爆弾の大部分は、学徒動員で集められた当時15、6歳の日本の女学生たちによって製造された。コンニャクのりの蒸気が立ち込める工場の中で、昼夜分かたず12時間の立ち仕事。それがどんな兵器になるのかも知らされず、ただ言われるがまま作業を行った。覚せい剤を飲まされながらの、過酷な労働だった。
取材していく中には、自分が兵器の製造に関わったことが今でも心に重くのしかかり、多くを語りたがらない元女学生もいた。そんな中で話をしてくれた人々の貴重な証言の数々。青春の真っただ中、純粋に国を想い、ただ懸命に兵器を作った元女学生たちの戦争とはどんなものだったのか? 戦後20年以上を経て、アメリカでの犠牲者の存在を知った彼女たちの胸中は? そして犠牲者の遺族は今何を語るのか?
2009年1月18日OA番組内容(’09年01月18日放送)
『ある名誉毀損判決の波紋~オリコンvsジャーナリスト~』
言論には言論で応じる時代は終わったのか?
ジャーナリストの記事やコメントに対して、書かれた側がいきなり訴訟を起すケースが増えている。しかも巨額の損害賠償を求めるケースが多く、言論活動封じ込め目的?との批判が起こる例すらある。
ヒットチャートで有名なオリコンは、ある雑誌記事により名誉を傷つけられたとして5000万円の損害賠償訴訟を起した。しかも記事の執筆者や編集責任者は訴えず、雑誌の取材先となったジャーナリストだけを訴えるという手段に出た。こうしたオリコン側のやり方に「口封じまがい?」との批判の声もあった。
1年5ヶ月に及ぶ審理の結果、東京地裁の一審判決はオリコン側の訴えを認め、ジャーナリスト個人に100万円の賠償を命じる内容となった。しかし一方で、判決に首をかしげる人も多かった。「裁判所は、口封じまがいの訴訟を、是認するつもりか・・」と。
米国では、言論封じ込めを目的とした訴訟は「SLAPP」と呼ばれ、訴えそのものが門前払いとなることが多い。言論の自由への悪影響を危惧してのことだ。しかし日本の司法界には「SLAPP」という概念そのものがない。審理が長期化すると、訴えられたジャーナリストは裁判対策に忙殺され、勝ち負け以前に疲弊して活動を封じられることすらある。
番組ではオリコン訴訟判決が生んだ様々な波紋について取り上げ、訴訟と言論のバランスをどう取るべきかを考える。
2008年12月21日OA番組内容(’08年12月21日放送)
『世界最貧国は訴える~食糧危機の深層~』
今年、世界各地で食糧価格の高騰をきっかけにしたデモや暴動が相次いだ。現地では一体、何が起きているのか。私達は、西アフリカの小国、ブルキナファソに向かった。取材を進めるうち、「食糧が高い→生活が苦しい→暴動を起こす→食糧支援を行えば解決するのではないか」といった単純な図式では説明し尽くせない事態が進行していることを知った。
ブルキナファソは世界で最も貧しい国のひとつに数えられている。そこで暴動の主体となったのは青年達だ。彼らは農村で生活ができないため、仕方なく農地を捨て、街にやってくる。しかし街にも仕事はない。生活はますます苦しく、そこに食糧価格の高騰が追い打ちをかける。
彼らはなぜ村を捨てたのか。彼らが出てきた村で私達が見たものは、水不足に苦しむ農民の姿だった。村人は言う。「昔は自給自足の生活ができていました。それは雨が降らなくなる前のことでした」。
雨が降らない。先進国の引き起こした気候変動が今、アフリカの最貧国を追い詰めている。村人たちの言葉に表れている通り、最も気候変動の影響を受けるのは、それを防ぐ手段をもたない、貧しいアフリカの国々だといわれる。
環境破壊、水不足、食糧危機、そして貧困。今、世界が直面するすべての課題を内包するアフリカの国は、問いかけている。
2008年11月23日OA番組内容(’08年11月23日放送)
「10・10空襲を知っていますか?」
全長200メートル、重さ43トン。
「那覇大綱挽」の綱は、ギネスブックで認定された世界一の大綱だ。400年の伝統を誇る那覇大綱挽は、戦争の影響などで1935年(昭和10年)に途絶えていた。
復活したのは、1971年(昭和46年)。元々日にちは定まっていなかったが、復活を機に10月10日と決まった。体育の日の祝日。そして那覇市民にとっては、決して忘れられない日でもあった。
1944年(昭和19年)10月10日。その日の朝、中原俊明さんはトイレの窓の向こうに、異変を見た。遠くの空に黒い煙がもくもくと上がっていた。そして、蚊のような大群がこちらに向かって飛んで来る。それは航空機だった。機銃掃射!「何が起きているのかわからないが、とにかく防空壕へ入れ」と父は言う。近所の人たちは、「これは演習ですか?」と聞いていた。
それは本物の空襲だった。早朝から夕方まで、5回にわたる波状攻撃。延べ1400機の米軍艦載機が、合計541トンの爆弾を落とした。「10・10空襲」と呼ばれることになる爆撃・・・。
首里の高台から那覇市街を見下ろした人は、「船や飛行場、倉庫などが爆発、その煙が天まで届いて怪物のように見えた。それが落ちてくるのではないか」と恐怖した。那覇市の9割が焼失。日本への空襲で初めて焼夷弾が使われ、病院や学校など、民間施設も爆撃を受けた無差別攻撃だった。
県の輸送課職員だった山里和枝さんは、空襲を知って県庁に向かう。グラマンの機銃掃射を受けながら民家の軒下を走り抜けた。県庁にたどり着くと混乱状態だった。監視哨から次々と爆撃情報などが入って、電話は鳴りっぱなし。それを受け続けた。近くに爆撃を受け、庁舎が揺れる。上司である荒井退造警察部長は言った。「動くな、頑張れ」。
県都、那覇が一日にして灰儘に帰した10・10空襲を、当時の大本営はひた隠しにした。沖縄守備軍・第32軍は、その時、驚くべき失態を演じていた。そして沖縄は、熾烈な地上戦へと追いやられていくことになる。
その後の沖縄戦があまりにも凄惨だったため、10・10空襲の印象は、沖縄でも決して強くない。加えて2000年、10月10日は祝日ではなくなった。体育の日は第二月曜日、那覇大綱挽は、その連休中に行われることになった。10・10空襲を記憶にとどめて、10月10日に平和の綱を挽く‥その心は次第に薄れていくようにも見える。
一方で、あの空襲を決して忘れまい、後世に伝えていこうとする取り組みがある。空襲映像の上映会、写真展、学生の活動、家族・親戚の中での語り合い…。64年めの、その日を追った。
2008年10月19日OA番組内容(’08年10月19日放送)
浦添商業高校が甲子園の頂点を目指し、星野ジャパンが世界の頂点を目指している頃、沖縄の北谷球場で来年を目指した高校生の静かな戦いが行われていた。沖縄県高校野球新人大会。1、2年生チームが県の頂点を目指す。
新人戦自体は他県でも行われることだが、沖縄のこの大会だけは、ある人物の名前を冠した優勝杯の争奪戦でもある。その名は島田杯。沖縄戦直前に赴任した知事、島田叡。敗戦によって沖縄県が琉球政府となったため、「最後の沖縄県知事」とも呼ばれた人物の名前だ。
開幕試合を見つめるバックネット裏に、2人の人物の姿があった。1964年、初めてその優勝杯を手にした、当時のコザ高校の選手と監督である。コザ高校は、「沖縄県立」ではなく「琉球政府立」の時代だった。「モノのない時代に、名実ともに重いカップだった。沖縄の高校野球が今日あるのは、島田杯、島田さんのおかげ」と2人は言い切る。
彼らだけでなく、沖縄県の高校野球関係者の多くが、甲子園に行くたびに訪れる場所がある。兵庫県立兵庫高校、戦前の神戸第二中学だ。島田叡は神戸二中をはじめに、旧制三高、東京帝大と、俊足の外野手として活躍した。
1945年に知事として赴任した沖縄で、県民とともに生き、死んでいった。求められれば、「てるてる坊主てる坊主、あした天気にしておくれ」と、いつまでも歌いながら踊り続けたという。梅雨の雨と弾雨の下で。
この夏、島田の原点である神戸と、終焉の地となった沖縄県摩文仁の丘に、同じ文字を刻んだ碑が建てられた。
『断而敢行鬼神避之』。
島田叡生前の座右の銘である。そして、「島田杯を野球だけでなく他の競技にも」という声があがる。
63年を経ていまなお熱く語られる島田叡。沖縄と兵庫、沖縄と本土をつなぐ架け橋として、その名は未だに生き続けている。
今年新たな記念碑が建てられた摩文仁の丘には、島田の「終焉の地」の碑がある。そこで、米軍の攻撃で散った、あるいは、自決したとも伝えられるが、島田の消息は定かでないし、遺体も確認されていない。
沖縄戦が事実上終わった6月23日。
今年も内閣総理大臣が出席して、慰霊式が行われた。そこから最も近いところに、戦没した県庁職員の慰霊碑、「島守の塔」がある。そして「終焉の地」の碑。慰霊式典に続いて、ここでも例年、慰霊式が行われる。
碑の建つ丘の中腹は、切れ込んだ崖になっている。その下に、島田が最後の時間を過ごした壕があったという。その場所に降りてみた。そして、「終焉の地」や周辺をあらためて検証した。
県民に「生きろ・・・」と言った知事(報道の魂#30)。学生時代に野球選手として、常に本塁への生還を目指した人物。その人が、「軍人のやりかたである自決などするはずがない」。そうした声に衝き動かされて取材を続けるうちに、新たな証言に行き当たった。島田知事の人間像を髣髴とさせるその証言は、これまでの定説を覆し、島田知事の「最後の日々」に、一筋の新たな光をあてることになった。(敬称略)
2008年9月7日OA番組内容(’08年09月07日放送)
「白雲にのりて君還りませ~学徒出陣と最後の早慶戦~」
「白雲にのりて 君還りませ
さくらのそよ風 菊のかおり
あなたの守り給える ふるさとは
いま 平和にみちています」
かつて鹿児島県霧島市にあった第二国分基地を見下ろす上床山。そこに特攻慰霊碑がある。碑に刻まれた鎮詩。目の前に広がるふつふつとした白い雲が、沸き溢れんばかりの英霊の魂に見えたという。
1943年10月16日、学徒出陣の5日前、今は無き戸塚球場で、戦前最後のアマチュアの試合、いわゆる「最後の早慶戦」が行われた。戦時下、野球は敵性スポーツと見なされて六大学野球リーグは中止、戦局の悪化で、ついに学生までも兵隊に駆り出されることが決まり、「戦地へ征く前に最後の思い出を作ろう」と半ば強行で行われた。
このとき早稲田大学の三番バッターとして活躍した近藤清は、神風特攻隊草薙隊の隊員として、第二国分基地から飛び立ち、24歳の若さで命を落とした。
終戦から63年。星移り時は流れて、往時を語る人も少なくなり、僅かな人々が現場を訪れては、追悼の頭を垂れるのみとなった。有無をいわさず戦争に駆り出され、平和の礎となって散って征った若者たちが、如何に生き、何を考え、如何に死んでいったのだろうか。
今まで数多くの映画や小説の題材となってきた「最後の早慶戦」。試合を観戦した野球少年が付けていた「スコアブック」や、今まで伝えられていた試合開催の経緯を覆す「未発表の原稿」など、60年を経て明らかになった事実やエピソードも紹介する。
2008年8月3日OA番組内容(’08年08月03日放送)
『肉体は魂の牢獄ではない~ALS患者 中林基さんの20年~』
TBSのライブラリーに、ある一人の人物を追った300本以上の取材テープが保管されている。難病、ALSの患者、中林基さんを20年に渡って取材したものである。
ALSは運動神経系の細胞が変性、死滅し、全身の筋肉が萎縮してゆく病気だ。体は徐々に動かなくなってゆくが、意識は清明で五感の感覚もそのままだという。つまり、人を徐々に動かぬ肉体に閉じ込めてゆくような病だ。「難病中の難病」、「5年以内に8割が亡くなる病」といわれ、尊厳死、安楽死の議論の対象になることすらある。
カネボウでデザイナーをしていた中林さんは、1980年に発病した。その後、進行する病に闘いを挑むように絵を描き続ける。車椅子に体を固定し、天井から手を吊り下げて描く姿は「祈りのようだ」といわれた。
その絵をもとにALSの研究基金をつくり、絵が描けなくなった現在でも色紙に自作の俳句を書く「俳字」を制作するようになった。その作品は今年、日本タイポグラフィ協会のベストワーク賞を受賞している。病に侵された体でありながら、次々に仕事を成し遂げて行く中林さんの記録を見て行くと、その強靭な意志に圧倒される。
「肉体は魂の牢獄である」とプラトンは言った。だが、ALSという病の牢獄は、人の自由は奪えても、その意志を潰えさせることはできない。中林さんは、そのことを身をもって証明している。
2008年7月6日OA番組内容(’08年07月06日放送)
「目が見えなくても映画が観たい」、「音が聞こえなくても映画を楽しみたい」・・・。目や耳の不自由な人はおよそ70万人といわれるが、サポートする家族、団体、友人の数は、その何十倍にもなる。そして、そうした家族や友人と一緒に、映画やビデオを観たいという彼らの願いは、強いものがある。
字幕の入った映画に接したことのある人は少なくない。洋画の字幕版。多くのテレビ番組も、字幕の入っていないものはない。だが、耳の不自由な人にとって必要な字幕は様子が違う。セリフや人名、地名は言うまでもない。落下音や破裂音、さらには風の音や鳥の声、あらゆる音が対象となるが、頼りになるのは全て文字である。
眼の不自由な人には、音だけが頼りになる。セリフの間に、人物の表情や動作、風景などの情報を全て音声で説明することが求められる。
限られた秒数の間に、必要かつ十分な情報を盛り込む。しかも、見たとき、聞いたとき、複数の解釈が生じたり、誤解を与えることがあってはならない。そして、作品の雰囲気を損なってはならない。
視聴覚障害者のための字幕、音声ガイドの制作は、日本語の言葉を一語一語チェックして、文字通り研ぎ澄ましていくプロセスである。
字幕と音声ガイドが入った映画、バリアフリー映画の取り組みは始まってまだ間もない。作品の数も多くないが、上映施設の設備、そもそも私たちの社会そのもののあり方など、文字通り多くのバリアが存在している。そんな中、ボランティアやNPOの手で始まったバリアフリー上映に出資する企業も出始めている。
「西の魔女が死んだ」。児童文学のベストセラー小説を映画化するにあたって、バリアフリーへの道が選択された。作品の中で、魔女=英国人のおばあちゃんが、学校にとけ込めない中学生の孫娘に語りかける。
「人はみんな幸せになれるようにできているんですよ」。
多くのメッセージを含んだ映画作品の試写会が、東京のある小学校で行われた。会場の体育会館には、生徒とともに視聴覚障害者の姿もあった。
学校やPTAなどと入念な打ち合わせを経た試写会は、多くの実験的要素を含んでいる。
視聴覚障害者とともに体験するバリアフリー映画。そして、映画の中で語りかける「おばあちゃん」のメッセージ。生徒たちがそこで感じたものは、何だったのだろうか。そして、真のバリアフリーとはどういうことなのだろうか。
2008年5月4日OA番組内容(’08年05月04日放送)
「光市母子殺害事件~もうひとつの視点」
1999年、山口県光市で起きた母子殺害事件。被告の元少年に死刑判決が下るのか、差し戻し控訴審判決が注目されている。
一方で、この事件をめぐっては、「行き過ぎた報道」、「一方的な制裁報道」が指摘されるなど、事件報道のあり方そのものが問われる場面もあった。タレント弁護士の扇情的な発言により「弁護団懲戒請求騒動」が起きたことも記憶に新しいところだ。
ジャーナリストの綿井健陽さんは、マスメディアが流す報道をいったん疑って、自らの目と耳でこの事件を再検証することにした。これまでイラク戦争取材などを通して、綿井さんはマスメディアが流す情報と取材現場との間に、大きなズレがあることに気づいていた。
「予断を排除して、まずは現場に飛び込むのが自分の仕事…」
綿井さんはこの事件についてもそう考え、法廷での傍聴は勿論、被告の元少年への面会、事件現場の取材などを繰り返してきた。そんな綿井さんの取材活動に密着し、光市事件を別の角度から再検証してみた。
そこで浮かび上がってきたのは、少年犯罪を大人と同等の裁判にかけることの是非、裁判があだ討ちの場と化してゆくことの危険性、センセーショナルな報道がもたらす弊害、などであった。問われているのは被告の元少年だけではなく、事件を取り巻く社会そのものだったのである。
裁判員制度導入まであと一年…。事件報道のあり方を問う典型的なケースとして、差し戻し控訴審判決が目前に迫った光市事件について、あらためて考える。
2008年4月6日OA番組内容(’08年04月06日放送)
島田叡(あきら)という人物をご存知だろうか?旧内務省のキャリア官僚で、最後は知事として戦況逼迫の沖縄に赴任し、沖縄戦のさなかに住民と共に生き、死んでいった男である。
官僚とはかくあるべき・・。死後、"官吏(かんり)の亀鑑(きかん)"、すなわち官僚の鑑とまで呼ばれることになる。島田叡はそんな人物であった。
大戦末期、米軍迫る沖縄は、官僚らが相次いで本土に逃げ帰り、まさに捨石の状態だった。そんな中、島田知事は敢然と沖縄に赴任し、県民たちを勇気づけた。「この知事となら共に死ねる・・」そう思った県庁職員も多かったという。
米軍上陸、地下壕への県庁移転、地上戦、南部への撤退、そして・・・。島田知事が在任した5ヶ月はまさに地獄の日々であった。多数の住民が命を奪われ、行政は無力化し、県庁は崩壊していった。そんな修羅場にあっても島田知事は最後まで毅然と執務し、県のトップとしての生き様を通した。
番組は、島田知事を知る生き残った県庁職員たちの証言をもとに、官僚の鑑といわれた人物の最後の日々を描く。
63年前の3月、県庁として使われた首里の地下壕。知事が最後にたどり着いた轟の壕。摩文仁の丘に建つ島守の塔。そこには、沖縄戦で殉職した職員とともに島田知事の名も刻まれている。そうしたあの日々のあの場所を、当時の県庁職員だった山里和枝(やまざと かずえ)さん(82歳)と共に訪ねて当時の体験を語ってもらった。
山里さんは現在、沖縄戦の語り部として戦争を語り続けているが、その最大の理由は島田知事に最後にかけられた言葉にあるという。いったいどんなやり取りがあったのだろうか・・。「島守」たちが語る63年目の沖縄戦とは。
2008年3月2日OA番組内容(’08年03月02日放送)
鈴木真依さん、25歳。統合失調症と診断されて5年になる。
愛知県にいるころ、死にたいといっては精神科の救急に運ばれ、薬が増えるばかりだった。それでも症状は悪化し、思いあまって北海道浦河町にやってきたのが4ヶ月前である。その日から薬の量は4分の1になった。
薬が減っただけではない。いくら「死にたい」といっても、浦河町では医者も仲間の患者もまじめに取りあってくれない。「それで?」と、話のつづきを要求する。死神さんに取りつかれている自分に、いったいなにを話せというのだろうか。真依さんはとまどうばかりだった。
とまどいは、やがて苦労に変わる。自分の病気がどういうものか、だんだんとそのメカニズムがみえてくる。自分は、統合失調症という病気に守られていたのかもしれない。けれど病気というバリアーが失われようとしているいま、ぽっかりと穴があいたようなこのむなしさはいったい何なのだろうか。死にたいという思いのあとに、真依さんには別のつらさが待っていた。しかし「それで順調なのだ」と、浦河ではみんながいうのである。
2008年2月3日OA番組内容(’08年02月03日放送)
漫画家でエッセイストの藤臣柊子(ふじおみ・しゅうこ)さんは、「脳みそ系」を自称している。
長いことうつ病を患ってきた。しかし自分にあるのはうつだけではない。躁に近くなるときもあれば、パニック障害を起こすこともある。なんだか分からない部分があって、それをふくめて自分は「脳みそ系」なのだという。
病気が悪くなるときは、ほんとに厳しい。死ぬことばかり考えたときもある。毛布に包まって寝るだけしかない日々もあった。
「表面上落ち込むとか、そういうんじゃなくて、SFチックっていうんですかね」
そういう、なんとも形容のしようがない落ち込みにも見舞われる。
世は、うつの時代だといい、うつ病は薬でよく治るようになったともいう。しかし現実のうつ病、いや「脳みそ系」の人々は、簡便な説明では捉えきれない症状と、こころとからだと、そして人生とを抱えている。
連載の漫画やエッセイを創作しながら、当事者でもあり続ける藤臣さんの日常を追った。
2008年1月6日OA番組内容(’08年01月06日放送)
「ERが拠点~最前線で戦う精神科医~」
山田朋樹医師は、精神科医だ。同時に、救命救急医でもある。
横浜市立大学病院の救命救急センターに常駐し、救急医療を担当しながら、必要な患者には精神科医としての診療も進めている。
救命救急センターに精神科医がいるのはきわめてめずらしい。なぜだろうか。
それは救命救急センターに搬送される重症者のなかに、かなりの率で自殺未遂者、自殺を試みる人びとが含まれているからだ。自殺未遂者は、身体面での治療を受けて退院しても、心の問題をケアされていないと再び自殺を試みる率が高い。そして自殺「既遂」者となる確率もまた高い。これが日本の自殺者の数を押し上げる一つの重要な要因となっている。
自殺未遂を減らせば、自殺そのものを減らすことができる。そのために、自殺未遂者に救急医療の段階から関わるべきではないか。
山田医師たちの「自殺予防研究チーム」はこう考え、救命救急センターの最前線に立ち続けてきた。それが日本の自殺者を減らすという確信があったからだ。3年間にわたる「最前線の精神科医療」は、多くの命を救ってきたことを数字が語りはじめている。
2007年12月2日OA番組内容(’07年12月02日放送)
「変貌のモザンビーク ~昇龍開発~」
めざましい経済成長をとげる中国。世界の市場を席巻するメイド・イン・チャイナ。いまや世界経済は中国抜きには語れない。
その中国はここ数年、アフリカに急接近している。中国とアフリカを結びつけるものは「天然資源」。石油などのエネルギーや一次産品を優先的に確保するため、中国政府はスーダンをはじめとするアフリカの資源国に次々と経済援助を実施している。
一方、新世代の中国商人は競争力のある中国製品を携え、南アフリカなどの新興アフリカ諸国に根をおろして市場を席巻し、"昇竜経済"の大きな潮流を生み出している。
資源の輸入大国として、また「世界の工場」として、日々存在感を増す中国と世界はどうつきあっていくのか。モザンビークの現場から、急速に深まる中国・アフリカ関係をレポートする。
2007年11月4日OA番組内容(’07年11月04日放送)
「八十年目のメッセージ~棋聖と日本と中国と~」
今から80年前、中国の日本人社会を驚かせた囲碁の天才少年がいた。福建省からやってきたその少年は、ほどなく日本へ渡ることになる。当時の中国囲碁界は、少年の活躍の場足りうるところではなかったのだ。犬養毅らが、渡日に動いたという。
日本へ渡った少年は、最強の棋士への道を越えて、伝説の棋士への道をたどっていく。呉清源・・・。その名は、1930年台には日本全国に知らぬ人のないものとなった。強いだけではない。親友でライバルとなった木谷實と「新布石」を発表し、解説を通じて囲碁の普及にも大きな影響を与える。「碁は勝負の面から見れば"武"、すぐれた棋譜を残すという想像の面では"文化"」という持論は、早くから体現されていった。
少年は今、93歳。対局の世界からは引退して間もなく半世紀となる。今は秘書を兼ねる女性棋士、牛力力さんに指導と解説を続ける日々だ。これが力力さんの作業を通じて、日本と中国それぞれで紹介され、多くの囲碁関係者に影響を与え続けている。"武"の世界からは退いたが、"文"の世界では現役であり続ける。「追求するものは真理と囲碁」。少年の心は健在、だから今も現役である。
その人生を描いた映画が完成した。中国の田壮壮監督が久しぶりにメガホンを取り、主役には台湾の俳優が起用された。だが、それ以外の俳優は日本人ばかり、ロケも殆どが日本で行われた。大半のセリフが日本語である。現役の人物が映画化されることも含めて、異色ずくめの作品である。
日中国交正常化35周年の今年は、日中スポーツ文化交流年と位置づけられている。その一環で11月に公開される映画は、そのはるか以前から日中間の歴史の狭間に身を置き続けてきた"少年の心"を描いている。この作品を機に、今、伝説の棋士が語られる機会が増えている。
「中和」。呉清源さんは、今も自ら掲げる理想を追求している。寡黙であり続けるその人が発し続けるメッセージを追った。
2007年10月7日OA番組内容(’07年10月07日放送)
「揺れ続ける原発城下町-新潟中越沖地震2ヶ月-」
米どころ・新潟。早生品種の地域は、稲刈りのシーズンである。新潟県柏崎(かしわざき)市もそうした地域のひとつだ。農家にとって、年々コメの値段が下がる厳しい状況が続くなか、今年はもう1つ、心配の種が増えた。
7月16日、震度6強の揺れが襲った中越沖地震。地震による犠牲者は11人を数え、けが人は1900人に上ったが、何より日本中の目を釘付けにしたのは、柏崎(かしわざき)刈羽(かりわ)原子力発電所から黒煙の上がる映像だった。
火災の消火に手間取っただけでなく、7号機は排気筒から大気へ、そして6号機は放水口から海へ、微量の放射性物質が漏れた。次々と明らかになる原発のトラブルは夏場の観光シーズンを直撃した。
そして今。30年も原発と共存してきた農家の人々は、コメに影響が出ないと確信している。だが、価格への影響はないのだろうか。
「想定外」の地震・・・。だが、学術的なデータや知見をもとに、以前から活断層の存在を指摘していた人は少なくない。「原発を造ってはいけない場所」と指摘する人は、「心配が現実のものとなった」と語る。
こうした中、原発に影響を与える活断層は見つからなかったと判断していた東京電力が、22年ぶりに原発沖の断層調査を始めた。原発の立地にお墨付きを出したのは国だが、直接の調査を行わない。東京電力が行っている調査を、後日評価するだけである。
原発の安全は、誰が守るのか。そして、何をもって再開の扉を開くことができるのだろうか。疑念と不安、揺らぐ経済基盤・・・。街並みや建物が再建されるだけではすまない復興の道。住民の心は複雑だ。
激震を受けた原発とどのようにして共存していくのか、歴史上誰も経験したことのない道に立たされている現地から報告する。
2007年9月2日OA番組内容(’07年09月02日放送)
「人知れず~十二世の一中節~」
音楽というのは、先ず聞くこと。それも1回や2回ではなく、何百回も聞くこと。すると、おもしろさが「おのずとわかってきます。絶対にわかってきます」。こう断言するのは、一中節(いっちゅうぶし)という三味線音楽の流派の十二世家元、都一中(みやこ・いっちゅう)さんだ。
三味線弾きとしての都一中さんは、舞台での公演に加え、90年代から旺盛な三味線の普及運動をつづけてきた。舞台以外で弾いたり語ったりすることが異端視されがちなこの世界で、その啓蒙活動は多くの人を刺激し、楽しませ、邦楽の世界へといざなっている。
都一中さんの解説つきコンサートは、たんに三味線だけでなく、邦楽全般、ひいては江戸から近代に至る古今の芸能、文化を渉猟して聞くものを魅了する。その都一中さんの「レクチャー・コンサート」を中心に、三味線音楽の奥深さを紹介する。
三味線は元来、庶民の熱狂を誘う革命的音楽の中心にあった。庶民が自由に作り変え、自由に演奏し、なにものにも縛られない自由の楽器だったのである。西洋音楽一辺倒の学校教育は、いまや三味線の音色を日常から縁遠いものにしてしまった。そのことによって失ったものの大きさを、私たちはなかなか理解できない。こうして失われたもののひとつは、この世には西洋音楽とはまったく異なる価値観、世界観、哲学をもった別種の音楽が無数に存在するということへの想像力だろうか。
2007年8月5日OA番組内容(’07年08月05日放送)
「著作権“70年”論争~文化は誰のものか~」
芸術作品の著作権を巡って、いま激論が交わされている。
現行、創作者の「死後50年」となっている著作権の保護期間を「延長すべき」か「延長すべきでない」のか・・。作家、漫画家、写真家などを巻き込んで、相対立する意見が激しく飛び交っている。“知的財産”を巡ってまさに“知的議論”が展開しているところだ。
延長賛成派の言い分はこうだ。
日本では「死後50年」となっている保護期間であるが、欧米先進国の多くは「死後70年」となっており、日本より20年も長い。日本も欧米並みに延長すべきであるし、そうしなければ日本の作家は20年分の権利を剥奪されていることになる。これは創作意欲にも影響する、と。
延長反対派の言い分はこうだ。
保護期間の延長は、作品の流通を阻害し社会にとってマイナスである。古いコンテンツが死蔵され日の目を見ない可能性も出てくる。コンテンツ輸出国である欧米と比べ、日本はコンテンツ輸入国であり保護期間延長によるメリットも少ない。欧米並みを目指すのではなく「50年」を維持するのが望ましい、と。
果たしてこの論争、今後どのように発展してゆくのだろうか。政府の文化審議会も、この延長問題を今年中に結論を出す課題のひとつとしている。米国からは頻りに「延長すべし」の圧力がかけられていて、日本の選択に、世界が注目しているのだ。
知財立国とは何か? 日本の選択すべき道とは?・・・。
著作権問題を通して「文化は誰のものか?」を問いかける。
【出演】
松本零士(漫画家)、福井健策(弁護士)、富田倫生(青空文庫)
2007年7月1日OA番組内容(’07年07月01日放送)
「眼の子、剣の子」
宮坂七海さん、小学4年生。耳が聞こえない。
七海さんは、日本語を聞いたり話したりすることはできない。しかし手話が使える。家のなかでも学校でも、家族や友だちと手話で自由に話をし、なにも困ることはない。
耳が聞こえず、手話を使う人々をろう者というが、七海さんはさしずめろうの子だ。ろう者がしばしばそうであるように、七海さんもまたものごとを眼で捉える力が並はずれている。その眼の力を生かし、1年前から剣道の稽古をはじめた。将来は立派な剣士になるのだと毎日稽古に余念がない。
七海さんのはつらつとした毎日を可能にしているのは、手話ということばだ。それも、日本手話という、ろう者のことばだ。
手話は「耳の聞こえない人が使うことば」と多くの人が知っていても、その手話がじつは日本語と異なる言語だということはほとんど知られていない。手話は「日本語を手の形に直したもの」ではなく、単なるジェスチャーや身振りでもなく、ろう者固有の自然言語だということに多数派である「聴者」はなかなか気づかない。気づかないどころか、手話は長らく誤解と偏見と、差別の対象とされてきた。それはなぜか。
日本手話と、日本手話で子どもたちを教えるフリースクール「龍の子学園」、そして少数者の「言語権」について考える。
2007年5月22日OA番組内容(’07年05月22日放送)
「食べることは生きること~口腔ケアの試み~」
人間の尊厳を守ることとは、人生の最期まで、口から食べることを実現することではないか。
東京・新宿にある、歯科クリニック院長の五島朋幸さんは、同じ歯科医である妻の登世子さんと高齢者のための、訪問診療を続け10年になる。地元新宿から杉並、中野、練馬までこれまで訪問したお年寄りは、のべ4000人にのぼる。
在宅介護のなかで最も厄介なひとつは、口腔ケアだといわれる。しかし、寝たきりや障害を持つお年寄りを歯科医院に通院させることは、難しく口の中までは、とても手が回らないというのが現状だ。
そのため、お年寄りの"口"とは、これまで、触れてはならないものとして放置され、そのため、多くの高齢者が、「食べること」を奪われてきた。こうした現状を、何としても変えたいと、五島さんは、毎日、午後になると、愛用の自転車にまたがり、何軒もの家々を回っていく。
口腔ケアとは、単に、入れ歯の矯正や、口の中を清潔にすることではない。本来、口が持つ機能を維持し、"食べられる口"を実現させ、口を通して、その人の生活を支えていくことだ。
病気や様々な理由から、口から食べることが出来なくなったお年寄りたちが、再び、食べられるようになると、実に生き生きしてくる。さらに、口腔ケアとは、在宅の介護者の負担を大きく軽減する支援でもある。
番組では、日本の高齢者が置かれている現実を、口から変えようと孤軍奮闘する歯科医五島さんの、口腔ケアの実践を紹介し、人間として最期まで口から食べ、生きることの意味を考える。
2007年5月1日OA番組内容
「早寝早起きしてますか?」
「早寝早起き、朝ご飯」、このことばが、最近しきりに小学校の教室で聞かれるようになった。読み書きソロバンもだいじだけれど、それ以前にまず、早寝早起きをしよう、そして朝ご飯をちゃんと食べてから学校にいこう、と子どもたちや親に呼びかけたものだ。学習以前の、基本的な生活習慣を身につけよう、ということでもある。
それほどに、いまの子どもたちは早寝早起きができない。いや、できないというより、子どもたちにそうさせない、親や家庭の生活様式が広がっている。夜ふかしと不規則な毎日、外食やファストフード、スナック菓子に取り巻かれた子どもたちは、朝ご飯を食べずに学校にきて、ぼおーっとしている。授業に集中できず、教室に落ち着きがない。当然、学習も進まない。
学校で、なにをどう教えるか以前に、生活の基本を取りもどさなければ──こうして各地ではじまったのが「早寝早起き、朝ご飯」だ。単なる精神論ではない。実際、子どもたちは「子どもらしさ」を取りもどし、学習効果もあがる。教育の現場だけでなく、医学者もこの動きに注目しだした。「早寝早起き、朝ご飯」で、子どもたちの脳のなかにはなにが起きているのか。
BS-TBS の情報を携帯サイトでもお伝えしています。